神の存在証明における七つの論証のパターンのまとめ
このシリーズの前回までの一連の記事では、哲学や神学、さらには、聖書自体の記述に基づく神の存在証明に関わる様々な議論のあり方について順番に取り上げてきましたが、
こうした神の存在証明の議論における具体的な論証のパターンのあり方は、大きく分けて、以下で述べるような七つのパターンに分けて捉えていくことできると考えられることになります。
神の存在証明の議論における代表的な七つの論証のパターンのまとめ
まず、
哲学や神学における最も有名な神の存在証明のパターンとしては、存在論的証明と呼ばれる神の実在性の論証のパターンが挙げられることになります。
そして、
存在論的証明の議論においては、神の存在のあり方が「それよりも大きな存在を考えることができないもの」あるいは「完全な能力を持つ存在者」などとして定義されたうえで、
そうして定義された神の概念の内には、必然的にそれとは不可分なものとして「存在」という属性が含まれることになるといった形で神の実在性についての論証が行われていくことになります。
つまり、
こうした存在論的証明あるいは本体論的証明と呼ばれる神の実在性の論証の議論においては、
神における存在概念そのもの、すなわち、存在という概念本体についての論理的な分析を通じて神の実在を見いだしていこうとする形而上学的な探究が進められていると考えられ、
具体的には、中世のスコラ哲学者であるアンセルムスやデカルトによる第三の神の存在証明の議論などがこうした存在論的証明の代表的な議論として挙げられることになるのです。
そして、
その次に有名な神の存在証明のパターンとしては、宇宙論的証明と呼ばれる神の実在性の論証のパターンが挙げられ、
宇宙論的証明の議論においては、現実の宇宙における様々な事物の因果系列をどんどん過去へとさかのぼっていくことによって、最終的に、そうした宇宙に存在するあらゆる事物の究極の根拠となる第一原因としての神の存在へと行き着くという形で神の実在性についての論証が行われていくことになります。
そして、
こうした宇宙論的証明の代表的な議論としては、アリストテレスの「不動の動者」に基づく神の存在証明の議論や、中世のスコラ哲学の大成者であるトマス・アクィナスの「第一の道」から「第三の道」における神の存在証明の議論などが挙げられることになります。
そして、
哲学史におけるもう一つの有名な神の存在証明の議論としては、目的論的証明と呼ばれる神の実在性の論証のパターンも挙げられることになり、
目的論的証明の議論においては、空を飛ぶための翼や物を見るための目といった生物体の構造に見られるような極めて複雑で精巧な構造に代表されるような世界の内に存在する様々な自然的事物の内に見いだされる合目的性と秩序に焦点が当てられたうえで、
そうした世界の内に存在するすべての事物をそれぞれの目的に適った合目的性を持った存在として秩序づけている知性的な存在としての神の実在が必然的に不可欠として位置づけられることになるという形で神の実在性の論証がなされていくことになります。
そして、
こうした宇宙論的証明の代表的な議論としては、トマス・アクィナスの「第五の道」における神の存在証明の議論などがその代表として挙げられることになるほか、
現代の生物学の分野などにおけるインテリジェントデザイン説の議論なども、こうした神の存在の宇宙論的証明のパターンのうちに含めることができると考えられることになります。
④観念論的証明
また、
こうした存在論的証明と宇宙論的証明と目的論的証明という哲学や神学の分野において代表的な三つの論証のパターンのうちのいずれにも含めることのできない哲学的な神の存在証明の議論のうちで代表的なものとしては、
近代観念論の祖であるともされる17世紀のフランスの哲学者であるデカルトにおける三つの神の存在証明の議論のうちの第一の神の存在証明の議論と第二の神の存在証明の議論が挙げられることになります。
こうしたデカルトにおける二つの神の存在証明の議論においては、
思惟する存在としての私、すなわち、意識や自我といった精神的存在としての私の存在のことを最も確実で明証的な真理である哲学の第一原理として位置づけるという観念論哲学の立場に立ったうえで、
人間の意識の内に存在する「無限」や「完全」といった観念、あるいは、そうした私の意識の存在の原因となる自己原因と神の存在の実在性についての論証がなされていくことになるのですが、
そういった意味においては、
こうしたデカルトにおける自我や人間の意識の存在に基づく神の存在証明の議論あり方は、神の実在性の論証における観念論的証明のパターンとして位置づけることができると考えられることになるのです。
そして、
前述した存在論的証明や宇宙論的証明や目的論的証明に代表されるような哲学や神学における神の存在証明の議論は、
近代哲学の祖としても位置づけられる18世紀のドイツの哲学者であるカントの批判哲学においてすべて否定されていくことになるのですが、
カントの批判哲学においては、神の存在は論理的な思考によってその存在を証明するような対象ではないと位置づけられたうえで、
人間の道徳的な意志の存在に基づいてその根拠としての神の存在の必然性が示されていくことになります。
そして、
カント自身は、こうした人間の道徳的な意志に基づく神の存在の必然性の議論を、あくまでも、理論理性における論理的な証明ではなく、実践理性における必然的な要請として位置づけているために、
厳密な意味においては、こうしたカントの議論に対して「証明」という言葉を用いるのはあまり適切ではないとも考えられることになるのですが、
広い意味においては、
こうしたカント哲学における人間の道徳的な意志の存在に基づく必然的な存在としての神の存在の要請の議論は、神の存在の道徳論的証明のパターンとして位置づけることができると考えられることになるのです。
⑥救済論的証明
そして、
こうした哲学的な神の存在証明の議論のあり方のほかにも、キリスト教の聖典である聖書の記述に基づくより宗教的な意味におけるな神の存在証明の議論のあり方としては、救済論的証明と呼ばれる議論の存在も挙げられ、
救済論的証明においては、父なる神である主が子なる神であるイエスを世の人々を救うために遣わされたという聖書の言葉と、イエスの十字架の死という事実といった二つの側面から
人々の魂の救済の根拠としての神の存在が解き明かされていくことになると考えられることになります。
⑦神と人間の存在の類比に基づく証明
また、
旧約聖書の「創世記」における記述においては、神は自分の姿をかたどり、自分自身の存在に似せて人間を創造したと語られていることから、
そうした神の似姿としての人間の存在を探求していくことによって神と人間の存在の類比に基づいて神の存在そのものを解き明かしていくことができるとも考えられていて、
こうした神と人間の存在の類比に基づく証明のあり方においては、人間は、自分の外側の世界に神の存在の根拠となる証を求めなくても、
この世界の内で最も神に似た存在である自分自身の魂の内奥を深く探求していくことによって、その創造主である神自身の存在へと近づいていくことができるといった考え方が示されていくことになるのです。
・・・
以上のように、
神の存在証明の議論における代表的な論証のパターンのあり方としては、
①存在論的証明(本体論的証明)
②宇宙論的証明
③目的論的証明
④観念論的証明
⑤道徳論的証明
⑥救済論的証明
⑦神と人間の存在の類比に基づく証明
という全部で七通りの論証のパターンを提示することができると考えられることになるのです。
・・・
次回記事:信と知の領域の区分とカントの批判哲学における理論理性と実践理性の領域の区別
前回記事:精霊と聖霊の違いとは?四大の力を司る超自然的な存在としての「精霊」とキリスト教における「聖霊」の位置づけ
このシリーズの前回記事:聖書における三通りの神の存在証明のあり方とは?救済論的証明と目的論的証明そして神と人間の存在の類比に基づく証明
「神とは何か?」のカテゴリーへ