アンセルムスによる神の存在証明①、『プロスロギオン』における神の存在論的証明の議論
前回書いたように、神の存在証明と呼ばれる神の実在性の論証についての議論においては、
新約聖書において示されているキリスト教における神の定義のうちのいずれか一つの定義が取り上げられることによって、
そうした定義された神についての実在性の論証が行われていくという形で証明の議論が進んで行くと考えられることになります。
そして、神の存在証明と呼ばれる論証の議論には、存在論的証明や宇宙論的証明、目的論的証明といった様々な証明のパターンが存在すると考えられることになるのですが、
そうした様々な種類の神の存在証明の議論のなかでも、哲学において最も有名な神の存在証明の議論としては、
中世ヨーロッパのイタリア生まれの神学者にして哲学者でもあり、イギリスのカンタベリー大主教の座に長くあったことからイギリスのスコラ哲学者として有名な「スコラ学の父」と称される人物であるアンセルムス(Anselmus、1033年~1109年)によって唱えられた神の存在論的証明の議論が挙げられると考えられることになります。
『プロスロギオン』第二章における神の存在論的証明の議論
アンセルムスの主著の一つである『プロスロギオン』(Proslogion)において、彼はまず、自分自身が神を信じる者であることを告白する信仰告白を行ったうえで、
そうした信仰の対象となるキリスト教における神が現実において実際に存在することを証明するための議論を進めていくことになります。
そして、こうした『プロスロギオン』の第二章において記されている神の存在論的証明の議論における論証の全体の流れをそのまま追っていくと、それは以下のようになります。
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『プロスロギオン』における神の存在証明の議論において、アンセルムスは、まず、
神は「それよりも大きいもの(偉大なもの)を考えることができないもの」であると定義したうえで、
こうした神の定義自体は、神の存在を信じるかどうかに限らず、あらゆる人々にとって理解することができ、受け入れることが可能な神の定義であることから、
上記のような概念として定義されるところの神は少なくとも人間の理解の内には存在すると結論づけることになります。
そして、
そうした「それよりも大きいものを考えることができないもの」としての神が人間の理解の内にだけ存在する場合と、それが人間の理解の内だけではなく現実においても実際に存在する場合とを比べると、
前者の場合よりも、後者の場合の方が、人間の理解の内にある神の大きさに、現実における神の実在の大きさが足し合わされることによって、その総和がより大きなものとなると考えられることになります。
すると、
前者の場合のように、神が人間の理解の内にだけ存在すると考えると、その場合の神の大きさは、後者のように神が現実に実在するとした場合よりも、現実における神の実在の大きさが差し引かれる分だけ小さくなってしまうことになり、
それは、はじめに示した「それよりも大きいものを考えることができないもの」という神の定義と矛盾することになってしまうと考えられることになります。
したがって、
以上のような一連の論証の議論に基づくと、「神が人間の理解の内にだけ存在する」とする前者の主張からは上述したように矛盾が導かれることから、
帰謬法(背理法)※によって、もう一方の主張である「神が現実においても実際に存在する」とする後者の主張の方が必然的に真であると論証されることになるのです。
※背理法:ある命題と正反対の命題が真であると仮定して、そこから矛盾を導くことによって、もう一方の元の命題が真であることを証明する論法。
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以上のように、アンセルムスの主著の一つである『プロスロギオン』における神の存在証明の議論においては、
神を「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義したうえで、そうした定義における神が、人間の理解の内にだけ存在する場合より、現実にも実際に存在するとした方がより大きなものとなることから、
神を「それよりも大きいものを考えることができないもの」と定義する上記の神の定義に基づく限り、神は現実において実在するという結論が導かれるという形で、
神の存在論的証明とよばれる論証の議論が進められていくことになると考えられることになるのです。
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次回記事:神が「それよりも大きいものを考えることができないもの」として定義される理由とは?アンセルムスによる神の存在証明②
前回記事:神の存在証明とは何か?キリスト教の神の定義に基づく定義された神の実在性の論証
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