神の存在証明とは何か?キリスト教の神の定義に基づく定義された神の実在性の論証
神の存在証明(argument of the existence of God、アーギュメント・オブ・ディ・イグジステンス・オブ・ガッド)とは、一言でいうと、
人々の信仰の対象となっている神的存在、特に、キリスト教における神について、そうした神が現実において実際に存在するということを人間の理性によって論理的に証明しようとする試みのことを意味する概念であると考えられることになります。
そして、こうした神の存在証明の議論においては、その論証の進め方のタイプに応じて、
存在論的証明(本体論的証明)、宇宙論的証明、目的論的証明、道徳的証明、さらには、形而上学的証明、認識論的証明、歴史的証明、救済論的証明、神秘主義的証明、心理的証明といった様々な証明のパターンが存在すると考えられることになるのですが、
そもそも、こうした神の存在証明と呼ばれる議論においては、
どのような神のあり方について、その実在性の論証が行われていると考えられることになるのでしょうか?
キリスト教の神の定義に基づく定義された神の実在性の論証
「新約聖書における十八の神の定義」の記事で書いたように、
キリスト教の聖典である新約聖書において示されている神の定義のあり方としては、
唯一神・全知全能・創造主・善性・完全性・普遍性・永遠性・至高者・救済者・言(ロゴス)・霊(精神)・契約の神・裁きの神・平等なる神・平和の神・光明神・始動因・目的因
といった十八の神の定義を挙げることができると考えられることになります。
そして、神の存在証明においては、こうした新約聖書において示されている神についての定義のうちのいずれかの定義に基づいて、
そうした概念として定義されるところの神が、現実においても実際に存在するという論証が展開されていくことになります。
例えば、
神の存在証明のなかの宇宙論的証明と呼ばれる論証の議論においては、
世界に存在するあらゆる事物の原因を次々にさかのぼっていくと、無から有は生じない以上、そうしたあらゆる存在の大本の原因となる何らかの存在、
すなわち、現代ではビッグ・バンと呼ばれるような宇宙誕生を引き起こす源となった宇宙におけるあらゆる存在にとっての究極の原因となる何かが必然的に存在すると考えられるという形で議論が進められていくことになり、
そうした宇宙におけるすべての存在の究極の原因としての神、すなわち、創造主または始動因として定義されるところの神は必然的に実在すると結論づけられることによって、神の実在性の論証が行われていくことになります。
つまり、
神の存在証明と呼ばれる議論のあり方は、それぞれの議論における論証の進め方に応じて、存在論的証明や宇宙論的証明、目的論的証明といった様々な証明のパターンへと分かれていくと考えられることになるのですが、
そうしたどの証明のパターンにおいても、新約聖書において示されているキリスト教の神の定義のうちのいずれか一つの定義が証明の対象となるべき神の定義のあり方として採用されたうえで、
そうした定義として捉えられる限りにおいて、そのようなあり方としての神は実際に存在するという論証が進められていくという点では、すべての論証のあり方は互いに共通していると考えられることになるのです。
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以上のように、
神の存在証明とは、人々の信仰の対象となっているキリスト教の神が現実において実際に存在するということを人間の理性によって論理的に証明しようとする試みであると考えられることになります。
そして、こうした神の存在証明と呼ばれる議論においては、
まず、上述したような新約聖書において示されている十八の神の定義などに基づいて、実在性の論証の対象となる神が具体的にどのような存在であると捉えることができるかが明確に定義されたうえで、
そうした定義された神が現実においても実際に存在するということを論証するというのが神の存在証明という試みすべてに共通する議論の進め方であると考えられることになるのです。
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そして、次回以降、改めて考察していくように、
こうした神の存在証明と呼ばれる神の実在性の論証についての議論のなかでも、特に主要な位置を占める論証の議論としては、
アンセルムスやトマス・アクィナスなどに代表される中世スコラ哲学や、デカルトなどに代表される近代観念論哲学における神の存在証明についての議論が挙げられることになると考えられることになるのです。
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次回記事:アンセルムスによる神の存在証明①、『プロスロギオン』における神の存在論的証明の議論
前回記事:旧約聖書と新約聖書における神の定義の違いのまとめ、新約聖書だけにある六つの神の定義と旧約聖書だけにある二つの神の定義
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