「満足な豚より不満足なソクラテス」の由来と真意とは?①ミルとベンサムの功利主義の違い
「満足な豚より不満足なソクラテス」または「太った豚よりも痩せたソクラテス」といった形で語られることが多いこの格言は、
正確には、
19世紀のイギリスの経済学者および社会思想家であるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)が功利主義に質的な視点を導入するに当たって例として挙げた
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、
満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という言葉に由来すると考えられることになります。
肉体的快楽と精神的快楽の両者を含めた幸福の追求
功利主義(utilitarianism、ユーティリタリアニズム)とは、
ミルと同じイギリスの経済学者であり法学者でもあったベンサムによって提起された倫理学および政治学上の学説であり、
それは、人間の行為の善悪は、その行為の結果としてもたらされる功利(utility、効用、有用性)によって決定されると考える倫理思想ということになります。
この場合の「功利」とは、すなわち、その行為がもたらす結果が行為者自身やその周りの人々にとって良い影響を及ぼすのか?それとも悪い影響を及ぼすのか?ということを示していると考えられるので、
それは、より日常的な言葉でいうならば、幸福や快楽といった言葉に極めて近い概念であると考えられることになります。
ただし、
こうした功利主義において語られている幸福や快楽については、
単に、美味しいものをお腹いっぱい食べて満足だ、とか、お金をいっぱい儲けられてうれしいといった肉体的・即物的な快楽だけではなく、
素晴らしい内容の本を読んで感動したとか、困っている人を助けて心が晴れやかになったといった精神的・知性的な効用のことも含めて「快楽」と呼ばれているので、
功利主義において求められている幸福や快楽とは、
より正確に言うならば、
肉体的快楽と精神的快楽の両者を含めた意味での幸福ということになるのです。
満足な愚者の生き方と不満足なソクラテスの生き方の質的な差異
そして、
ベンサムが、功利主義において問題となる快楽と苦痛はそのすべてが量的に比較可能であり、快楽や苦痛の種類に質的な優劣はないと考えたのに対して、
ミルは、幸福や快楽の実現が人生や社会における最大の目的と考える功利主義の立場に立っても、そうした幸福と快楽には質的な差異が存在すると主張することになります。
上記の「満足な豚より不満足な人間、満足な愚者より不満足なソクラテス」という言葉に表れているように、
十分な餌を与えられ肥え太った豚が何頭合わさっても、飢えてやせ細った一人の人間の価値に満たないように、
盗んだ金でご馳走にありついたり、酒や麻薬に溺れて肉体的な快楽を味わい尽くしたりするといった目先の欲望を満たすことで満足する愚者の生き方よりも、
善美なるものについての普遍的真理を見いだせず、人々を善なる生き方へと導くことができずに悩み続けることでいつまでも不満足であるソクラテスの生き方の方が、たとえ本人にとっては不満足な状態にあるとしてもより価値のある優れた生き方であると考えられることになります。
そして、
こうしたソクラテスと愚者の双方における生き方の違いや、肉体的快楽と精神的快楽の違いに見られるように、ミルは、幸福や快楽には、その質において大きな違いがあると考えたということになるのです。
・・・
そして、
こうしたミルにおける質的快楽主義のことを分かりやすく示すための例えとして用いられたのが、上記の「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」という言葉であると考えられることになるのですが、
こうしたミルの質的快楽主義の例示における論理展開の真ん中の部分を取り去って、
頭と末尾の部分をくっつけて簡略化した言葉が、
「満足な豚より不満足なソクラテス」という形で語られることが多い格言ということになります。
そして、
ミルが肉体的快楽としては不満足な状態にあるが、精神的にはより価値の高い状態にある人物の例としてわざわざソクラテスのことを挙げている以上、そこには何か理由があると考えられることになるわけですが、
次回は、
それではミルは、ソクラテスにおけるどのような思想のことを念頭において、上記のような言葉を語っていると考えられるのか?ということについて考えていきたいと思います。
・・・
次回記事:「満足な豚より不満足なソクラテス」の由来と真意とは?②ただ生きることと善く生きることの違い
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