ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?②善悪の判断の基準と根拠となる知識

前回書いたように、

ミルの質的功利主義においては、個々の快楽の間に質的な差異が認められ、

永続性・安定性・低費用性などの点から、概して、精神的快楽には肉体的快楽にまさる効用があると考えられることになります。

それでは、

そうした肉体的快楽や精神的快楽のいずれかに分類される個々の快楽における質的な差異のあり方は、具体的にはどのような形で判断されることになるのでしょうか?

そうした個々の快楽の間の質的な優劣の判断について、

判断の基準と、判断の根拠となる材料、そして、誰によってそうした判断が下されのが正当と言えるのか?という判断の主体という三つの観点から迫っていきたいと思います。

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功利主義における善悪の判断の基準とは?

まず、

功利主義においては、行為が行われた動機ではなく、行為の結果もたらされることになる効用のあり方のみから善悪の判断がなされることになるので、

カントの義務倫理学における定言命法のように、「~すべき」という道徳法則に従っているのでそれは善であるとするような法則的な善悪の基準を設定することはできないと考えられることになります。

それでは、

功利主義における善悪の判断の基準はどこにあるのか?ということですが、

それは、ベンサムの量的功利主義においてもミルの質的功利主義においても同様に、それぞれの個人が感じる快楽についての主観的判断の総和から効用の優劣としての善悪の判断がなされることになります。

つまり、

功利主義においては、ある一つの行為がもう一方の行為よりも善であるとされる善悪の判断基準は、その行為の結果もたらされることになる快楽が、もう一方の行為によってもたらされる快楽よりも普遍的に優れた快楽であるのか否か?ということに求められるということです。

そして、

ベンサムの量的功利主義においては、快楽において重視されるのはその量としての快楽の大きさのみなので、

どちらの快楽がより優れた快楽であるのかという判断は、基本的には、その社会を構成しているメンバーがどちらの快楽をより快いと感じるか?というメンバー全員の多数決で決まると考えられることになります。

つまり、

ベンサムの量的功利主義においては、その社会を構成しているメンバー全員に対して、どちらの快楽の方がより快いと感じるか?ということを聞いて回れば、おのずと個々の快楽についての優劣の判断も下せることになるということです。

しかし、その一方で、

ミルの質的功利主義における個々の快楽の質的な優劣の判断については、ここから少しずつ議論の流れが変わっていくことになります。

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質的功利主義において快楽の質を決める根拠となる判断材料とは何か?

ミルの質的功利主義においては、快楽には質的な差異があると捉えられることになるわけですが、

質的な違いがある二つの快楽の間の優劣を判定するためには、質的に異なるそれぞれの種類の快楽についての知識を予め判断材料として持っていることが必要だと考えられることになります。

快楽を質ではなく量についてのみ判断すればよい場合、

例えば、

ハンバーガーを10個いっぺんに食べる時に、1個目を食べる時の快楽10個目を食べる時の快楽のどちらがより大きい優れた快楽であるのか?という問いについては、

実際には、ハンバーガーを10個いっぺんに食べたことがない人であったとしても、お腹が空いたときにはじめて食べる1個目と、満腹になった後でさらに食べようとする10個目では、10個目を食べる時の快楽の方が価値が低い快楽、あるいはむしろ苦痛ですらあるかもしれないということは、十分に想像がつくと考えられることになります。

このように、

二つの快楽の間の優劣を判定するのに、その質については一切問わずに、快楽の量についてのみ考えればいいとするならば、特別な前提知識を必要としなくても自分の身体感覚に基づく類推から十分に適切な判定を下すことができると考えられることになります。

しかし、これが快楽の質についても考えていくことになると、

例えば、

ハンバーガーを10個食べる快楽とプラトンの『ソクラテスの弁明』を読破する快楽とどちらがより大きい優れた快楽であるのか?という問いについては、

ハンバーガーを実際に食べたことがあり、かつ、プラトンの『ソクラテスの弁明』を実際に読んだことがある人以外の人物にこうした質問をすること自体がナンセンスになってしまうと考えられることになります。

つまり、

上記の問いに適切に答えるためには、ハンバーガー『ソクラテスの弁明』から得られる異なる種類の快楽のあり方のそれぞれについて前もって十分な前提知識を有していることが必要であり、

このように、

質の異なる二つの快楽の間の優劣を適切に判定するためには、その判断の根拠として、それぞれの種類の快楽や効用についての実体験に基づく経験的知識を十分に有していることが必要不可欠ということになるのです。

・・・

以上のように、

ベンサムの量的功利主義ミルの質的功利主義においては、その快楽の優劣の判断において、

効用の優劣としての善悪の判断基準が、特別な道徳法則などではなく、個人が感じる快楽についての主観的判断の総和にあるとされる点は共通していると考えられることになります。

しかし、その一方で、

ベンサムの量的功利主義においては、快楽の量としての大きさを判定するのに特別な前提知識は一切必要とされないのに対して、

ミルの質的功利主義においては、快楽の質的な優劣を決める根拠となる判断材料として、双方の種類の快楽についての十分な前提知識が必要とされるという点において、両者の思想における快楽の優劣の判断のあり方は大きく異なってくると考えられることになります。

そして、このように、

快楽の質的な優劣の判断において、それぞれの種類の快楽について予め一定の前提知識を持っていることが必要とされることは、

その優劣を判定する判断の主体についても、それは共同体を形成しているメンバー全員というわけではなく、むしろ、その内の十分な知識を有する優れたメンバーのみに適切な判断を下せる人物の範囲が絞られてしまうという考え方へもつながっていくことになるのです。

・・・

次回記事ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?③エリート主義と哲人王へとつながる思想

前回記事:ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?①快楽の質的な差異と精神的快楽の重視

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