ヨーロッパの支配者ケルト人の黄金時代とヒッタイト帝国、ゲルマン民族興亡史①

地中海世界のすべてを支配する
世界帝国として君臨し、

その広大な領域を、
500年間に渡って統一し続けた
ローマ帝国は、

前の記事書いたように、
ゲルマン民族の大移動によって弱体化した末、
滅亡を迎え、

こうして
古代ギリシア・ローマ時代が終焉を迎えたのちに、
現在のヨーロッパの土台が築かれたわけですが、

そうした、ローマ帝国末期の
ゲルマン民族大移動の全容をつかむためには、

ゲルマン民族が現れる
以前のヨーロッパ大陸の情勢について、
さらにさかのぼって知っておくことが必要になります。

それは、

そもそも
ゲルマン民族はどこからやって来たのか?

そして、

彼らがやって来る前、
ヨーロッパは誰のものだったのか?

という問いです。

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ケルト人とヒッタイト帝国

古代ギリシア・ローマの時代、

ギリシア世界やイタリア半島、
地中海沿岸の諸都市などをのぞく、
膨大な領域である

東西ヨーロッパと中央ヨーロッパの大部分を支配していたのは
ケルト人でした。

ケルト人は、
インド・ヨーロッパ語族ケルト語派に属する民族で、

その祖先は、古くは、
中央アジアの草原地帯で農耕や牧畜、
遊牧生活などを営んでいたと考えられています。

かつて、
同じくインド・ヨーロッパ語族に属する
ヒッタイトは、

紀元前1500年頃に、
世界初の鉄器文化を築いて、

アナトリア地方現在のトルコ)に王国を築き、

この民族が築いた
ヒッタイト帝国は、

高度な製鉄技術を生かした
鉄製の武器の使用によって戦闘を有利にし、

メソポタミア地方(チグリス川とユーフラテス川の間、現在のイラクのあたり)を
征服するに至りました。

そして、
前1300年頃に最盛期を迎えたヒッタイト帝国は、

ついに、

最古にして最大の古代文明である
古代エジプト王国と衝突するに至ります。

紀元前1274年

エジプト王ラムセス2世
ヒッタイトのムワタリ2世

両軍合わせて
4万を超える規模の軍隊が、

現在のシリア西部にある
カデシュで激突し、

激戦を繰り広げた末、停戦となり、
両軍とも同地から兵を引き上げることになります。

このとき、史上初となる
公式な軍事記録が残され、

世界で初めて、

戦後に、両国の間で、
成文化された和平協定・国際条約
が結ばれました。

つまり、
前1274年エジプトとヒッタイトの間で行われた
カデシュの戦いは、

世界最古の正式な戦争だったということになるわけです。

なお、このときの大規模な戦いの記録として、
エジプトのラムセス2世を祀った寺院の壁画に、

エジプト軍と戦う
ヒッタイト軍
3人乗りの二頭立て戦車
(兵士を乗せた荷車を馬に引かせて走らせた戦闘用の馬車

が描かれていて、

戦車に乗った3人の兵士のうち、
1人は、馬の手綱を握って、戦車の進路をつかさどり、
もう1人は、盾を持って、敵の攻撃を防ぎ止め、

絵の中では、最後の1人の手は前の二人の兵士の体で隠されていて
何を持っているのか見えないのですが、

おそらく長い槍や弓矢などを持って、
敵を攻撃する役目を担っていたと考えられます。

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ケルト人の黄金時代

そして、そうした強大な鉄器文明を築いた
ヒッタイトと同じように

ケルト人も、
鉄製の武器戦車を用いて、

ヨーロッパへ
西へ西へと押し寄せるように移動していきます。

鉄製の斧投げ槍、長大な剣などを装備し、
馬に引かれた戦車に乗った
ケルト人の戦士たちは、

それまでヨーロッパに点在していた
先住民の居住地を次々と征服していったのです。

ケルト人は、
紀元前1200年頃から前500年ごろまでの
700年の間に、じわじわとその支配地域を広げ、

前500年頃までには、下図に示したように、
ヨーロッパの大部分を支配するに至りました。

紀元前500年頃のヨーロッパにおけるケルト人の勢力範囲と地中海沿岸の諸都市

東西ヨーロッパと中央ヨーロッパ
さらにはイギリス、アイルランドからスペイン北部に至るまでの
広大な領域がケルト人の支配下におさまり、

ケルト系の諸部族が互いに連帯と抗争を繰り返しながら、
ヨーロッパ全土を闊歩する

ケルト人の黄金時代が到来していたのです。

・・・

このシリーズの次回記事:ゲルマン民族はどこから来たのか?アーリア人種学説と民族の固有性の基盤、ゲルマン民族興亡史②

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