飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス②常識的な時間観と真実の時間観

前回の議論では、

ゼノンの「飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス」が生じる
前提となっている時間観に基づき、

時間が最小単位である瞬間から構成されていると仮定すると、

射手の手から放たれた矢が空中にとどまり続け、
いつまで経っても静止したままで飛んでいかないという

現実の知覚に著しく反する論理的帰結が生じることが明らかになりましたが、

このパラドックスの前提となっている時間観は、
実は、一般的に通用している常識的な時間観
多くの部分で一致する時間観となっていると考えられます。

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瞬間が過去へと流れ去る分だけ、時間は過去から未来へと流れていく

常識的な時間観では、

時間は過去から未来へと流れていくものとして
捉えられますが、

それは、より具体的には、
現在という瞬間が、過去から未来へと
次々に置き換わっていくように流れていくことを意味します。

例えば、

朝、目覚ましが鳴り、眠りから覚めるとき、
その目覚めの瞬間は、

それまでの眠っている状態の瞬間が、
目覚ましの音によって目が覚めている状態の瞬間へと置き換わり、

眠っていた瞬間が過去へと流れ去り
代わりに、目覚めている瞬間が新たな現在の瞬間となる
ことによって訪れるように、

つまり、

それまで現在とされていた瞬間が過去へと流れ去り
未来から来た新たな瞬間が現在の瞬間へと置き換わっていく分だけ、

時間の流れとしては、過去から未来へと進んでいくことになる

ということです。

常識的な時間観と真実の時間観

しかし、

以上のような時間観に基づくと、

はじめに述べたゼノンの「飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス」における
現実の知覚に著しく反する論理的帰結が生じてしまうことになるので、

飛ぶ矢がきちんと的をめがけて飛んで行き、
あらゆる存在における運動と変化が成立するためには、

以上のような、時間が瞬間から構成され、
現在という瞬間が置き換わっていくことによって、
過去から未来へと時間が流れていくという

常識的な時間観自体を捨て去る必要がある

ということになります。

それでは、

そのような常識的な時間観の代わりに、どのような時間観が
真実の時間のあり方を示す時間観であると言えるのか?

ということですが、

それは、「エレアのゼノンの哲学の概要」で書いたように、

ゼノンが、これまでに紹介してきた数々の
多数性論駁や運動のパラドックスの議論を提示してきた動機のすべてが、

ひとえに、その師であるパルメニデス
あるもの」(to eonト・エオン)、すなわち存在そのものに基づく
哲学理論の擁護のためであったことを考えると、

おのずと結論が出てくることになります。

つまり、

パルメニデスのあるものト・エオン)」の本性規定における
時間のあり方こそが、

過去から未来へと流れていく常識的な時間観
代わりに認められるべき、真なる時間概念ということになるのです。

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全体が、一挙に、現在の内に、永遠にある

そして、

あるものト・エオン)」の本性規定におけるパルメニデスの時間観とは、
上記の「あるもの(ト・エオン)の本性規定」の記事の中で書いたように、

アウグスティヌスの永遠の現在」(永遠の内に、時間を超えたすべての存在の全体が現前する認識のあり方)の時間観にも通底する、

過去や未来といった時間区分自体を否定する
無時間的時間観であったので、

ゼノンが、過去から未来へと流れていく常識的な時間観に替わって求める
真なる時間概念も、

そうした「永遠の現在」のような無時間的な時間観にある
ということになります。

通常、時間概念は、時計の針の動きや、天体の運行、川の流れのように、
何らかの物事の変化や流れを基準にして語られることが多いので、

存在そのものにおけるそうした変化や流れのすべてを拒絶する
無時間的な時間観というのは、具体的にはイメージしにくいのですが、

それは、一言で言ってしまえば、

過去や未来といったすべての時間的な区分が取り払われ
すべての存在が一挙に目の前に現れている状態

ということになります。

飛ぶ矢のたとえになぞらえて言うならば、

矢は弓につがえられつつ、飛んで行く途上のあらゆる中空にもあり、
それでいて、かつ、すでに的に刺さってもいるというように、

矢のそうしたすべての状態が、通常の時間区分を超えて、
現在の内に同時に在り

過去にあったとされるものは、何も失われることもなく、
永遠に現在の内に在り続け、

未来にあるであろうものも、それがいずれ現れることを待つことなく、
すでに現在の内に在るということです。

それはもはや、現実の世界に生きる人間にとっては
その視点に実際に立つことは不可能な
神の視点とも言うべき視座における時間観ということになりますが、

つまり、

存在そのものにおける真なる時間のあり方とは、

過去から未来へと流れていく
細切れの瞬間の寄せ集めなどではなく、

むしろ、その全体が一挙に、現在の内に永遠にある

ということになるのです。

・・・

以上のように、

「飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス」において、ゼノンは、

現在という瞬間が過去から未来へと流れていくという時間観に基づいて
運動という概念自体を否定することで、

運動や変化が成立する前提となっている
一般的な時間概念にも疑問を投げかけていると考えられます。

そして、

そうすることによって、

時間が過去から未来へと流れていくという
常識的な時間観自体を論駁し、

師であるパルメニデスの哲学理論に基づく真なる時間概念、すなわち、
存在そのものにおける無時間的な時間観を擁護するというところに、

「飛ぶ矢は飛ばず」という、一見すると
現実の知覚に著しく反し
不合理に見える突拍子もないパラドックスをあえて提示する
ゼノンの真意があるとも考えられるのです。

・・・

このシリーズの前回記事:
飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス①矢は瞬間の中で静止する

エレアのゼノン」のカテゴリーへ

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