ゲルマン民族はどこから来たのか?アーリア人種学説と民族の固有性の基盤、ゲルマン民族興亡史②

今回は、
前回の記事の冒頭で挙げた
もう1つの問い、

ゲルマン民族はどこからやって来たのか?

という問いについて考えてみたいと思います。

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ゲルマン民族とインド・ヨーロッパ語族

ゲルマン民族は、
前回書いた

ケルト人ヒッタイトと同様に、

インド・ヨーロッパ語族に属する言語を母語とする民族で、

言語系統の分類において、

インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派
に属しています。

インド・ヨーロッパ語族には、

古代では、
ラテン語、ギリシャ語、サンスクリット語、
ケルト語ヒッタイト語

現代でも、
ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、スペイン語、
ヒンディー語インド)、ペルシア語イラン
さらに、ロシア語、ウクライナ語など、

ヨーロッパを中心に数多くの言語が含まれていて、

世界で最も広く話されている
支配的な言語と言ってもよいと思われます。

インド・ヨーロッパ語族の祖先は、

紀元前6000年頃に、

黒海・カスピ海周辺(中央アジア西部から現在のウクライナ)の
草原地帯で発祥し、

農耕や牧畜、
遊牧生活などを営んで生活していたと考えられています。

そして、そこから、徐々に
世界各地へと移動を開始していき、

インドイラクトルコ、さらには遠く
ヨーロッパへと、

その活動の範囲を大きく広げていったのです。

ゲルマン民族とアーリア人

こうしたインド・ヨーロッパ語族は、

かつては、人種としての、
広義における
アーリア人同一視されることもありました。

アーリア人は、
紀元前1500年頃アーリア人の侵入において、
インドに侵入して、原住民を征服し、

カースト制(ヴァルナ・ジャーティ制)に基づく
身分制度社会を形成した民族ですが、

このアーリア人という
単一的な人種が、

イランに進出して、
ペルシア帝国を築き、

アナトリア(現在のトルコ)では、
ヒッタイト帝国を、

さらに、
ゲルマン民族として、
遠くヨーロッパまで進出して、

フランク王国、さらに、その後の
神聖ローマ帝国を築いた、

とも解釈されていたのです。

ヒトラーによるアーリア人種学説の悪用

こうした、
ゲルマン民族を含む、
インド・ヨーロッパ語族の言語を母語とするすべての民族は、

血統としても、
アーリア人という
単一の人種から派生したとする

拡大解釈されたアーリア人の概念を指して、

アーリア人種Aryan race

と呼ぶこともあります。

そして、

第2次世界大戦
ホロコーストナチス・ドイツがユダヤ人などに対して行った大量虐殺)の
悪夢を引き起こした、

かの悪名高い
アドルフ・ヒトラー

この
アーリア人種学説に基づいて、
ゲルマン民族の優秀性を主張したのです。

アーリア人という名称は、もともと、

サンスクリット語
アーリア高貴な

という意味の言葉が語源となっていて、

インドやイランで原住民を支配し、
支配者階級を形成していたアーリア人が、

自らを、他民族よりも、勇敢で優れた
高貴な民族であると自称していたことに由来します。

そして、ヒトラーは、

現在のドイツ人を中心とする、
ゲルマン民族こそが、

最も純粋な
純血なるアーリア人種

であり、

ゲルマン民族は
アーリア人=「高貴な人」で、
世界で最も優れた民族なので、

ユダヤ人などの、他の、
アーリア人種ではない民族は、

アーリア人種である
ゲルマン民族ドイツ人によって支配されるべきであり、

場合によっては、
滅ぼしてしまってもかまわない

と考え、

実際に、
600万人ものユダヤ人を虐殺してしまうという
狂気凶行にまで至ってしまったのです。

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民族の固有性の基盤はどこにあるのか?人種や血統と言語や文化

このように、
ゲルマン民族を含む、インド・ヨーロッパ語族全体が、

アーリア人種という1つの血統から発生した
人種としても純血に近い民族である、

という意味でのアーリア人種学説は、
ヒトラーに悪用され、

エスノセントリズム(ethnocentrism、自民族中心主義)と
人種差別主義の温床となってしまったため、

第二次世界大戦後は、
政治的・倫理的な意味からも、

あまり大っぴらに主張されることはなくなっていきました。

また、
そもそも、集団生活を営み、
一定の社会構造を維持していくなかで、

特定の民族のなかで、
同一の言語や文化が長い年月に渡って
受け継がれていき、

それが、
その民族の固有性や特色となる、

ということはあっても、

人種や血統については、

長い年月の間には、近隣の他民族との交流から、
混血がどんどん進んでいくことになるので、

数千年に渡って、
一つの民族が他民族とほとんど血縁を結ぶことなく、
純血のまま保持されていく

ということはあり得ないと言えるでしょう。

つまり、
世界史的な長期的な視座に立つとき、
民族の固有性の基盤は、

言語や文化にあるのであって、

人種や血統にあるわけではない、

ということです。

ゲルマン民族の源流と北欧への定着

話を、ゲルマン民族の方に戻しまして、

これまでに考えてきた、
インド・ヨーロッパ語族の来歴、
アーリア人とインド・ヨーロッパ語族の関係、
アーリア人種学説の是非の問題などを踏まえ上で、

ゲルマン民族はどこからやってきたのか?

という問題について考え直してみると、

いずれにせよ、

ゲルマン民族は、

中央アジア西部の草原地帯

農耕や牧畜、
遊牧生活を営んでいた人々を

源流の1つとして、

民族としての長い移動の旅の途上で

西アジアやロシア、東ヨーロッパ
などで生活していた

土着の民族との
混血を繰り返しながら、

北欧へとたどり着いた
ことは確かだと言えるでしょう。

彼らは、民族としての
長い流浪の時代を経て、

ケルト人より
さらに北方の地、

スカンジナビア半島(現在の北欧、ノルウェーやスウェーデン)や
ユトランド半島(現在のデンマーク)へと

流れ着き、

遅くても
前1000年頃までには、
この地に定着していたと考えられます。

・・・

このシリーズの前回記事:
ヨーロッパの支配者ケルト人の黄金時代とヒッタイト帝国、ゲルマン民族興亡史①

このシリーズの次回記事:
古代ローマ最後のフロンティア、ガリアへ、ゲルマン民族興亡史③

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