古代ローマ最後のフロンティア、ガリアへ、ゲルマン民族興亡史③

前々回に書いたように、
紀元前500年頃までに、

ケルト人ヨーロッパの大部分を支配するまでに
その勢力範囲を拡大し、

ケルトの黄金時代を築いていました。

ヨーロッパ大陸におけるケルト人の黄金時代は、
その後、400年ほど続くことになりますが、

この400年の間に、

はじめは一都市国家に過ぎなかった
ローマは、

カルタゴ(ローマと地中海の覇権を競い合ったフェニキア人の都市国家)や
アンティゴノス朝マケドニア(アレクサンドロス大王の後継王朝の一つで、ギリシア、マケドニアを支配していた)

を滅ぼして、

西地中海世界を制覇するに至りました。

一方で、
北欧のスカンジナビア半島(現在のノルウェー、スウェーデン)にこもっていた
ゲルマン民族も、

緩やかながら、
少しずつ南下を開始し、

ユトランド半島からドイツ北部にまで進出して、
ケルト人の勢力圏を圧迫するようになっていきます。

しかし、そのような情勢にあった
紀元前1世紀においても、依然として、

ケルト人は、西ヨーロッパの覇者であり続けていたのです。

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ローマ帝国完成のために残された2つのピース

紀元前1世紀頃のケルト人と共和政ローマの勢力範囲

紀元前1世紀に入り、

ローマ帝国の前身である
共和政ローマは、すでに、

現在のスペインからギリシア、トルコの一部に至る
広大な版図を築いていました。

しかし、
ローマが、

地中海を自らの内海とし、

ヨーロッパとアフリカ、アジアの
3つの大陸にまたがる広大な領土を治める、

世界帝国であるローマ帝国となるためには、

地理的条件として、

さらに、2つの領域を
自らの領土に加える必要がありました。

その領域とは、
地中海沿岸において、唯一、いまだ
ローマの支配下に入っていなかった地域である
エジプトと、

ローマにとっては、
広大な未開拓の領域であった、

現在のフランスを中心とする、西ヨーロッパ地域の
ガリアです。

世界帝国の完成のために残された
征服すべき
最後の2つのピースとして、

この時代、
ローマ人の目は、

アレクサンドロス大王の後継王朝の
最後の生き残りである、

プトレマイオス朝エジプト

ローマにとって、
最後のフロンティア開拓の可能性を秘めた辺境地帯
である

ガリアへと向けられていたのです。

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ガリア人とは誰か?

紀元前1世紀も半ばに入り、

ローマの将軍にして政治家
ガイウス・ユリウス・カエサルの時代になると、

ゲルマン人の活動はさらに活発になり、
すでに、この頃から、
ケルト人の勢力範囲だけでなく、

ローマの属州との境界地帯にまで出没し、
しばしば、その国境を脅かすまでになります。

しかし、そのような
カエサルの時代においても、なお、

西ヨーロッパの覇者は、いまだに
ケルト人であり、

カエサルが
ガリア戦記』に書き残し、

当時の、ローマ人が、

ガリア地方の住人を指して、
ガリア人」と呼んだ人々も、

その大部分は、
ケルト人諸部族のことを意味していました。

古代ローマ最後のフロンティア、ガリアへ

そして、

当時、現在のイタリア北部と
ガリア南部(現在のフランス南部)の
総督を任されていた

カエサルは、

ガリア南部に居住するケルト人を
完全にローマの支配下に組み入れ、

さらに、
ガリア全土を征服して、
ローマの属州とするために、

紀元前58年

古代ローマ最後のフロンティアである、
ガリアへと遠征に向かい、

ガリア戦争を開始したのです。

・・・

このシリーズの前回記事:ゲルマン民族はどこから来たのか?アーリア人種学説と民族の固有性の基盤、ゲルマン民族興亡史②

このシリーズの次回記事:ケルトの王ウェルキンゲトリクスとガリア戦記におけるカエサルの進路、ゲルマン民族興亡史④

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