ケルトの王ウェルキンゲトリクスとガリア戦記におけるカエサルの進路、ゲルマン民族興亡史④

紀元前1世紀中頃

ガリア属州の総督であった

共和政ローマの政治家であり、軍人でもある
ガイウス・ユリウス・カエサルは、

ガリア全土をローマの支配下において
属州とするために、

紀元前58年、ガリアに遠征し、
ガリア戦争を開始します。

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ヘルウェティイ族の虐殺と『ガリア戦記』におけるカエサルの進路

前52年アレシアの戦いに至るまでのガリア戦記におけるカエサルの進路

当時、
ゲルマン民族の南下により
圧迫を受けていた

ケルト人の一部族、
ヘルウェティイ族が、

一族の命運をかけ、
女性も子供も連れ立って、部族全員で
西方への移住を開始するのですが、

カエサルはこの動きに目をつけ、

ヘルウェティイ族が西方移住の途上で、
ローマの支配領域を通過しようとしたことを
口実に

移動途中の彼らに戦争を仕掛け、
これを襲撃し、打ち破ります。

この
カエサル率いる
ローマ軍による襲撃と虐殺により、

ヘルウェティイ族の、女性や子供も含む、
全ての部族民40万人のうち、

その半分を超える
23万人以上が殺され

生き残った者も、その多くがローマ軍によって捕らえられ、
奴隷として売られてしまいました。

その後、カエサルは、

南下を図っていた
ベルガエ人(現在のベルギーの名称の由来となっている民族)などの

ゲルマン民族なども討伐しながら、
ガリア全土を駆け巡り、

さらに、
ドーバー海峡(現在のイギリスとフランスの間の海峡)
を越えて、

遠く
ブリタニア(現在のイギリス)にまで、侵攻し、

現地の
ケルト人の一派である
ブリトン人まで、一時、その支配下におきました。

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ケルトの王ウェルキンゲトリクス

次々に、
ケルト人の諸部族を征服してく、

カエサル率いるローマ軍に対して、

いままで、
部族ごとに分散して戦っていたケルト人たちも、

無意識のうちに
民族としての存亡の危機を察知したのか、

反ローマの旗印を掲げて、
ガリア地域の全部族で団結して
カエサルを迎え撃とうと、

部族間で話し合いを進めていくようになります。

そして、その
反ローマを掲げる
ガリア地方の全部族の盟主として選ばれたのが、

ケルト人の一部族であるアルウェルニ族

若き王
ウェルキンゲトリクスだったのです。

ウェルキンゲトリクスは、
ガリア各地に使節を派遣して、

ガリア地方に居住する各部族に、
自分と共に立ち上がり、ローマと戦うように求めます。

その結果、
カエサルの『ガリア戦記』における記録によると、

セノネース族、パリ―シイー族、ピクトネース族、カドゥルキー族、トゥロニー族、アウレルキー族、レモウィーケース族、アンディー族、
その他、大西洋に面する全ケルト部族

ウェルキンゲトリクスの呼びかけにこたえて
彼のもとに集まり、

部族間の合議の結果、
全会一致で、

全部族の軍事指揮権
ウェルキンゲトリクス委譲することが決まります。

カエサル率いるローマ軍によって、
自立した民族としての存亡の危機に立たされた
ケルト人は、

アルウェルニ族の王にして、いまや

ケルトの王ガリアの王でもある
ウェルキンゲトリクス
のもとに、

その
民族としての最後の力を結集して、

古代ローマ最大の将軍である
カエサルが率いる
世界最強の軍隊であるローマ軍を

迎え撃つことを決意したのです。

・典拠
カエサル『ガリア戦記』、石川憲一訳、平凡社ライブラリー

・・・

このシリーズの前回記事:
古代ローマ最後のフロンティア、ガリアへ、ゲルマン民族興亡史③

このシリーズの次回記事:
若き王ウェルキンゲトリクスの知略とアレシアの二重の包囲戦、ゲルマン民族興亡史⑤

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