慈愛に満ちた女神と荒々しい破壊者としてのナウシカの二面性とは?両方の側面をあわせ持つ気高き裁定者としてのナウシカの姿

前回書いたように、漫画版の『風の谷のナウシカ』の最終章にあたる場面においては、

現在の世界を生きる生き物たちの犠牲のうえに、未来の世界の内に青き清浄の地を創り上げようとする墓所の主たちの計画を、その創造主である墓所の主たちもろとも巨神兵の炎の光によって焼き払ってしまうことによって、

ナウシカの手によって、人類が進むべき道として、自由と秩序闘争と平和の両方を側面をあわせ持った生命の道を選び取る裁定が下される場面が描かれていると考えられることになるのですが、

物語の最後において、こうした生命の道を選び取るナウシカの裁定のあり方においては、人類がこの先歩むべき道についてだけではなく、

ナウシカという存在そのものについての二面性が示されているとも捉えることができると考えられることになります。

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王蟲と蟲使いたちに愛でられる慈愛に満ちた女神としてのナウシカの姿

物語が終盤へとむけて一気に進み出す第六巻の冒頭の近い場面においては、

大地を飲み込む粘菌の暴走を鎮めるために、王蟲の群れと共に自らの命を捧げて、王蟲と一緒に森の一部になろうとしたナウシカの命を王蟲たちが深く愛でたために、

ナウシカが王蟲が生み出す聖なる漿(しょう)によって包まれて、森の人や蟲使いたちが集う腐海の森のほとりへと送り届けられる場面がでてきますが、

その場面では、聖なる漿に包まれたナウシカの神々しい姿を目にした蟲使いたちは、

「森の人よ。このお方は、人の姿をした森です。両界の中央に立たれておられます。どうか私共にこの方をお与えください。部族の守神にいたします。」(『風の谷のナウシカ』第六巻、35ページ。)

と語り、そののち、ナウシカが王蟲たちの精神世界との深い心の交流を終えて、長い眠りから覚めると、彼女との会話の中で、ナウシカに対して、

「マスクは俺達の掟です。人界で顔を出すのは不吉なことです。女神さまのご命令でもこればかりは…。」(『風の谷のナウシカ』第六巻、118ページ。)

とも話しかけてくる場面が出てくることになります。

こうした蟲使いたちの問いかけに対して、ナウシカ自身は、

女神じゃないただの人間だから友人になりましょう。わたしの名は風の谷のジルの子ナウシカ。あなた達の名は?」(『風の谷のナウシカ』第六巻、118ページ。)

と問い返していくことになるのですが、

いずれにせよ、こうした場面においては、神々や女神にもたとえられるような、いたわりと友愛に満ちたナウシカ姿が示されていると考えられることになるのです。

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慈愛に満ちた女神と荒々しい破壊者の両方の側面をあわせ持った気高き裁定者としてのナウシカの姿

しかし、

『風の谷のナウシカ』の物語の中で、主人公であるナウシカは、必ずしも常にそうした慈愛に満ちた女神のような存在として描かれ続けているわけではなく、

そもそも、物語のはじまりに近い場面においても、

巨神兵を甦らせる秘石の探索のために、風の谷へと侵攻してきたトルメキアの軍勢を率いるクシャナ殿下とはじめて対面するシーンにおいて、

トルメキア軍の配下の蟲使いたちが腐海の森の生物を谷に持ち込むことによって風の谷の大地を汚したことと、巨神兵を甦らせる秘石の探索のために死者の墓を掘り起こしたことに気づいたナウシカが、

怒りに我を忘れてトルメキア軍の近衛兵へと挑みかかり、その兵士を勢い余って刺し殺してしまう場面がでてきますが、

こうしたシーンでは、ナウシカの師である老剣士ユパも、

これがあのナウシカか……。攻撃衝動にもえる王蟲のように怒りで我を忘れている。」(『風の谷のナウシカ』第一巻、61ページ。)

と語っているように、

怒りと復讐のためになら相手を殺すことも厭わない荒々しい破壊者と殺戮者としてのナウシカの姿が示されていると考えられることになります。

そして、

冒頭で挙げた漫画版の『風の谷のナウシカ』の最終章の場面においても、ナウシカは、

旧世界の人類たちが残した世界再生のための計画を守ってきた墓所の主たちを、世界再生のために守り育てられてきた新世界の人類の卵もろとも巨神兵の炎によって焼き払い破壊し尽くしてしまうことになるわけですが、

このように、

『風の谷のナウシカ』においては、その物語全体を通じて

慈愛に満ちた女神としての側面と、荒々しい破壊者と殺戮者としての側面という二つの側面をあわせ持った存在としてナウシカという存在が描かれていると考えられることになるのです。

・・・

この物語の最終盤の場面においては、墓所の主たちを滅ぼそうとするナウシカの姿を目にしたトルメキアの王であるヴ王が、ナウシカのことを指して、

「気に入ったぞ。お前は破壊と慈悲の混沌だ。」(『風の谷のナウシカ』第七巻、212ページ。)

と語る言葉を残していますが、

こうしたクシャナ殿下の父であるトルメキアの王の言葉において端的に言い表されているように、『風の谷のナウシカ』の物語全体においては、

現在の世界に生きる人々と、腐海の森の生物たちを含めたこの星に生きるあらゆる生命を深く愛でて慈しみ、それを救うと同時に、

旧世界の人類が守り育ててきた人類再生の計画を破壊し、未来における人類という種族自体に終焉をもたらす裁定を下すことによって、

彼女自身は、この世界の内では、もはや滅びゆく種族となった黄昏の時代を生きる人々共に歩む道を自ら選び取っていくという

慈愛に満ちた女神荒々しい破壊者という両方の側面を持った気高き裁定者としてのナウシカの姿が描かれていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:『風の谷のナウシカ』とアシモフの「銀河帝国興亡史」の関係とは?両者に共通する社会哲学的な思想の構図

前回記事:ナウシカが語る人類が歩むべき第三の道としての生命の道とは?『風の谷のナウシカ』が示す人類が歩むべき三つの道②

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