若き王ウェルキンゲトリクスの知略とアレシアの二重の包囲戦、ゲルマン民族興亡史⑤
名将カエサル率いるローマ軍の
ガリア遠征によって、
ケルト人諸部族が次々に征服されていくなか、
ガリア戦争が開始されてから7年目の
紀元前52年、
ガリア地方のケルト人諸部族は、
自立した民族としての存亡をかけて、
若き王ウェルキンゲトリクス
のもと、
民族としての最後の力を結集して
ローマへの大反撃を開始します。
若き王ウェルキンゲトリクスの知略とカエサルの敗北
ウェルキンゲトリクスは、
ただ若く、勇猛な戦士だっただけでなく、
弱冠20歳にして、
軍事的才覚にも秀で、
戦場においても常に冷静で、統率力に優れたリーダーでもありました。
ウェルキンゲトリクスは、
防備が堅く、豊富な戦闘経験をもつ
統率のとれた
ローマ軍の熟練した重装歩兵団
に対して、
これまでのケルト部族の戦いがそうであったように、
全軍を真正面から突撃させて決戦を挑むのは、
得策ではないと考え、
各部族それぞれに、
武器と馬をできる限り多く
供出するよう求めます。
ケルト人は、もともと
製鉄技術に優れた民族であって、
兵士1人1人が持つ
鉄製武器の質と性能は、決して
ローマ軍に劣るものではありませんでした。
そこで、
ローマの統率がとれた、
頑強な歩兵軍団に対して、
兵士1人1人が分かれて戦う
乱戦に持ち込み、
さらに、
騎兵の機動力を生かすことで、
防備においてまさるローマ軍を
速さで上回り、
敵陣を一気に切り裂いて
粉砕してしまおうと考えたわけです。
具体的な戦術としては、まず、
ガリアの森林地帯を行軍するローマ軍を
少人数の部隊で待ち伏せて、
ゲリラ戦(待ち伏せしている小規模な部隊が散開し、敵兵を個別攻撃する戦術)
を展開して、敵軍の兵力を消耗させます。
次に、
騎兵の機動力を活かして、
ガリアの領域深くに侵入してきたローマ軍の
兵站線(戦場への食糧などの物資の輸送ルート)
を攻撃し、
ローマ軍の行動力を、その
大本から断ち切っていくのです。
ウェルキンゲトリクスの
こうした軍略は、
見事に成功をおさめ、
連戦連勝を誇ってきた
カエサル率いるローマ軍の進撃は
ここにいったんとどめられ、
ウェルキンゲトリクス率いる
ケルト人諸部族のガリア連合軍の前に、
敗北を喫するすることになります。
なお、このとき、
一族を滅ぼし、虐殺した
ローマ人への復讐心に燃える
ヘルウェティイ族の生き残りの戦士たちも、
ウェルキンゲトリクスの軍に加わり、
アレシアの二重の包囲戦
しかし、
ローマの名将カエサルも、
そうした状況にいつまでも
手をこまねいていたわけではありません。
カエサルは、
こうした劣勢の状況の中でも、
勝機が生まれる隙を見極め、
勢いづくガリア連合軍を前に、その勢力範囲を避けて、
いったん逃げるように迂回する姿勢を見せます。
しかし、これが
誘いの隙で、
カエサルは、
その動きに対応して
追撃を開始したウェルキンゲトリクスの軍を、
自軍が有利な地形まで誘い出して
迎え撃ち、
反対に、これを破ってしまします。
一転、ローマ軍に追われる立場となった
ウェルキンゲトリクスは、
近くに位置していた、
2本の川に挟まれた丘の上にある
天然の要害にある都市
アレシアへと入城し、
この地で、ローマに対し、
籠城戦を挑む構えを見せます。
これまでの戦いにおける
カエサル軍に対する勝利もあって、
ウェルキンゲトリクスに味方する
ケルト人部族の数は、小さな部族も含めれば、
100を超えようとする数にまで
膨れ上がっていたので、
自らが囮となって
カエサルをこの地に引き留めておけば、
援軍としてやって来る
ケルト人諸部族の連合軍が
カエサルの包囲軍自体を包囲し、
むしろ、
アレシアの城塞の
内側と外側から
ローマ軍の方を挟み撃ちにできると考えたのです。
アレシアの戦いは、
アレシアの城塞内にこもる
ウェルキンゲトリクスの軍を
カエサル率いるローマ軍が
包囲し、
さらに、その
カエサルの包囲軍を、
ガリア各地から駆けつけてきた
ケルト人諸部族の
ガリア連合軍が
包囲する
という、
二重の包囲戦
という形で進行していったのです。
ヨーロッパの覇者、ケルト人の命運
二重の包囲戦によって、
ローマ軍も兵站のルートは断たれていて、
食糧などの物資不足に苦しんでいましたが、
ローマ軍に包囲されている
アレシア市内では、
市内にもともと居住している
一般市民の分の食糧も確保する必要があったので、
アレシア城塞内の
食糧不足はより深刻なものになっていきました。
なので、
この戦いの勝敗の行方は、
アレシア城塞内の
食糧の備蓄が完全に尽きてしまう前に、
カエサル軍を包囲する
ケルト人諸部族の連合軍である
アレシア解放軍が
ローマ軍の包囲網を突破して、
ウェルキンゲトリクスの軍との合流と、
城塞都市アレシアの解放を
成し遂げることができるかどうかにかかることとなったのです。
アレシア解放軍は、何度も、
ローマ軍の包囲網の内側にまで迫る突撃を繰り出し、
それに呼応して、アレシア城塞内の
ウェルキンゲトリクスも自ら騎馬隊を率いて出撃し、
包囲網の内側からの突破を図りますが、
統率のとれた
ローマの重装歩兵団による
強固な反撃にあい、
ローマ人の高い
土木工事技術によって築かれた
アレシア包囲線を形成する
土塁(土を積み上げて築いた堤防状の壁)、
壕(陣地の周囲に設けられた堀)、
櫓(物見・防戦のために築いた高台)などからなる、
堅固な
包囲要塞陣地を攻略しきることはできませんでした。
2カ月にわたる二重の包囲戦の末、
アレシア城塞内の糧食が尽き果て、
勝利の見込みがなくなったことをさとった
ウェルキンゲトリクスは、
アレシア城塞内にいた全部族を集め、
部族間の最後の合議により、
自らの命をカエサルに差し出し、
ローマ軍に降伏することを決めます。
ローマ軍とガリア連合軍、合わせて
10万とも20万とも言われる軍勢が戦い続けた
アレシアの戦いは、
ついに、
カエサル率いるローマ軍の勝利によって、
その終結を迎えます。
以降、
散発的な形では、
ケルト人諸部族の
ローマへの反乱は続いていくものの、
紀元前52年、
アレシアの戦いにおける
カエサル率いるローマ軍の
決定的な勝利により、
ガリア地方の覇権を決める
戦いの趨勢は決し、
その後、
ガリア地方に居住するすべての
ケルト系諸部族は、
ローマの支配に服することとなり、
ガリア全土が属州として
ローマの支配下に入ることになりました。
ここに、
ケルト人によるローマへの
最後にして最大の反撃はついえ、
ケルト人の
ヨーロッパの覇者としての
命運もついに尽きてしまったのです。
・・・
このシリーズの前回記事:ケルトの王ウェルキンゲトリクスとガリア戦記におけるカエサルの進路、ゲルマン民族興亡史④
このシリーズの次回記事:
ガリア戦争の敗因と戦後のケルト人の行方、ゲルマン民族興亡史⑥
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