ガリア戦争の敗因と戦後のケルト人の行方、ゲルマン民族興亡史⑥

紀元前1世紀ガリア戦争

ウェルキンゲトリクスのもと、
民族の力を結集した戦いに敗れた

ケルト人諸部族は、
その後、

ローマ帝国の
完全な支配下に入ることになりますが、

結局、ガリア戦争における
ケルト人の敗因はどこにあったのでしょうか?

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部族による合議制と、統率力と求心力

局地的な戦いにおける敗因としては、
アレシアの戦いにおけるような、

攻城戦や包囲戦における
ローマ人との土木建築技術の差

を挙げることもできますが、

やはり、
戦争全体の趨勢を決する
決定的な要因は、

両者の
軍の、さらには、民族全体の
統率力と求心力の差

にあったと考えられます。

ケルト人には、そもそも、

明確な国境線をもった「国家」や、

その国家の基盤である
領土や領民を上から統治する者としての
」といった

概念は存在せず、

したがって、
カエサルのガリア遠征によって、

民族全体が存亡の危機に立たされる状況に
追い込まれるまでは、

ケルト人ケルト民族という、まとまった
民族意識もあまりもってはいませんでした。

ケルト人の間では、
部族内の方針の決定も、部族間の取り決めについても、

すべて
緩やかな合議制によって決められていて、

ケルト人には、

部族民と同等の立場で、
その代表として部族を率いる
族長はいても、

部族民全体を支配し、
彼らの上に君臨して絶対的な権力を振るう者としての
は存在しなかったのです。

ウェルキンゲトリクスについても、

彼は、
あまたのケルト人部族を束ねる盟主として、

一時的に、
全軍の軍事指揮権を委ねられていて、

その配下の者たちからは、
とも呼ばれてはいましたが、

その実、彼も、ケルト人内部での
正式な立場としては、

アルウェルニ族というケルト人の
一部族の族長

という立場に過ぎなかったのです。

ケルト人たちも、ローマ人と同じくらい
自分たちの部族と文化に誇りをもっていて、

その士気
ローマ軍と同等に高かったのですが、

ケルト人が命を懸けて戦い、
忠誠を尽くす対象は、

あくまで、
自分が所属する部族だけだったので、

アレシアの戦いでも、

稀有に有能な指揮官であった
ウェルキンゲトリクスから離れてしまった

包囲線の外側のケルト戦士たちは、

部族が異なる兵士間の
連携が崩れ

軍隊としての
団結力と求心力を失い

十分に力を発揮することができなかった
と考えられます。

一方、

ローマ軍、そしてローマ人たちは、

自分たちの拠り所である、
ローマという国家のために忠誠を誓うので、

たとえ、名将カエサルから離れていても

兵士たちが心を一つに合わせて
団結した行動をとることができ、

強い団結力と求心力をもって
最後まで戦い続けることができたと考えられるのです。

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ヨーロッパ大陸におけるケルト人の消滅

ガリア戦争におけるケルト人の敗北によって、
全ガリア地方がローマの属州と化してから、
数世紀が過ぎると、

ヨーロッパ大陸に居住する
ケルト人は、

ローマ軍によって
奴隷化されたり、

属州のなかの
被支配民として
ローマ帝国の内部に組み込まれていくことによって、

ローマの文化と、ローマ人という民族集団
吸収されていきました。

ブリトン語アイルランド語、ウェールズ語といった、
ケルト語系の言語を話し、

独自の文化をもった民族としての
ケルト人は、

その主要な活動領域である
ガリア地方を失っても、

ブリトン人(現在のイギリスに定住していたケルト人の一派)や
アイルランド人として

一部その文化
現在まで継承していくことになりますが、

ウェルキンゲトリクスのような、
勇敢で知略にも優れた
誇り高い戦士を生み出した

民族としての特色と固有性をもった集団としての
ケルト人は

ヨーロッパ大陸の主要な領域からは
完全に姿を消してしまったのです。

そして、そうした
ケルト人と交代するように、

いよいよ、
ローマに対抗し、
これを脅かす最大の勢力として、

ゲルマン民族が台頭していく時代が
到来することになります。

・・・

このシリーズの前回記事:
若き王ウェルキンゲトリクスの知略とアレシアの二重の包囲戦、ゲルマン民族興亡史⑤

このシリーズの次回記事:
ゲルマン民族の南下とローマ帝国を蝕むアメーバの触手、ゲルマン民族興亡史⑦

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