クレタ文明とミケーネ文明とトロイア文明の違いとは?エーゲ海を代表する三つの文明の位置関係と具体的な特徴の違い

古代ギリシアにおける最古の文明にあたるエーゲ文明を代表するエーゲ海周辺の各地域における文明としては、クレタ文明ミケーネ文明トロイア文明という三つの文明が有名ですが、

こうしたエーゲ海における三つの文明は、それぞれどのような位置関係にあったと考えられ、具体的にどのような特徴の違いがあったと考えられることになるのでしょうか?

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クレタ文明のエヴァンズによる発見とアカイア人の征服による滅亡

20200425① クレタ文明とミケーネ文明とトロイア文明の位置関係

そうすると、まず、はじめに挙げた

クレタ文明またはミノア文明と呼ばれる文明はエーゲ海の南部に位置する地中海最大の島であるクレタ島を中心に栄えた海洋文明であり、

紀元前2000年頃~紀元前1400年頃にかけて全盛期を迎えていくことになり、

考古学の歴史においては、こうしたクレタ文明と呼ばれる文明は、イギリスの考古学者であったアーサー・エヴァンズによって1900年に発見されることになり、

エヴァンズによって発掘されたクノッソス宮殿は、ギリシア神話におけるクレタの伝説の王であるミノス王牛頭人身の怪物であったミノタウロスを閉じ込めるために築かせたと語り伝えられていた巨大な迷宮であったと考えられています。

そして、

こうしたクレタ文明あるいはミノア文明と呼ばれる海洋文明は、地中海交易を通じて大きく発展していくことになり、フレスコ画漆器や陶磁器などの工芸品などの生産が行われたほか、線文字Aクレタ聖刻文字と呼ばれる文字の使用も行われていくことになります。

そして、その後、クレタ文明は、

紀元前1400年頃になると、ギリシアペロポネソス半島を中心に興隆したミケーネ文明の担い手であったギリシア人の一派であるアカイア人たちによって征服されることによって滅亡してしまうことになるのです。

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ミケーネ文明のシュリーマンによる発見とドーリア人の侵入による滅亡

それに対して、その次に挙げた

ミケーネ文明と呼ばれる文明はギリシア本土において栄えていくことになったアカイア人と呼ばれるギリシア人を担い手とする最初の文明であったと考えられ、

紀元前1600年頃~紀元前1200年頃にかけて全盛期を迎えていくことになり、

考古学の歴史においては、こうしたミケーネ文明と呼ばれる文明は、ドイツの考古学者であったハインリヒ・シュリーマンによって1876年に発見されることになります。

そして、

こうしたミケーネ文明と呼ばれるギリシア本土におけるアカイア人たちによって築かれた文明においては、ペロポネソス半島を中心にミケーネティリンスといった数多くの都市国家が建設されていくことになり、

エーゲ海における先進文明であったミノア文明との海上貿易などを通じて工芸技術芸術などの面でも大きく発展していくことになります。

具体的には、

ミケーネの町を守る城塞の門であったとされる獅子の門や、トロイア戦争においてギリシア側の総大将をつとめたギリシア神話の英雄であるアガメムノンのものであるともかつては考えられていた葬儀用の仮面である黄金のマスクなどが残されているほか、

ミケーネ文明においては、前述した線文字Aと呼ばれる文字が簡略化され、文字体系が法則的に整備された線文字Bと呼ばれる文字が新たに開発されることによって、古代ギリシア世界全体へと文字文化が定着していくことになります。

そして、その後、ミケーネ文明は、

紀元前1200年頃になると、地中海に突如として現れた民族系統不明の集団である海の民による都市の襲撃と破壊や、ギリシア北方の山岳地帯からギリシア本土へと移動してきた別のギリシア人の一派であるドーリア人の侵入を相次いで受けることによって滅亡の時を迎えてしまうことになるのです。

トロイア文明のシュリーマンによる発見とトロイア戦争による滅亡

そして、最後に挙げた

トロイア文明と呼ばれる文明は現在のトルコが位置するアナトリア北西部エーゲ海沿岸に築かれた古代都市トロイアを中心に栄えた文明であったと考えられ、

紀元前2600年頃~紀元前1200年頃にかけて断続的に栄えていくことになり、

考古学の歴史においては、こうしたトロイア文明と呼ばれる文明は、ドイツの考古学者であったハインリヒ・シュリーマンによって1871年に発見されることになります。

そして、

こうしたトロイア文明と呼ばれる文明の中心地となった古代都市トロイアは、黒海とエーゲ海を結ぶダーダネルス海峡を中心とする海上交易を通じて商業都市として大きく栄えていくことになり、

エーゲ海の島々ギリシア本土とも交流を持つと同時に、アナトリア半島において興隆した古代帝国にあたるヒッタイト帝国などのオリエントの文化からの影響も受けることによって、

強大な王権による東方的な専制政治に基づく都市国家の統治を進めていくことになります。

そして、その後、トロイア文明は、

紀元前1200年頃になると、トロイア戦争と呼ばれるギリシア軍トロイア軍との間で行われた戦いに敗れたことなどによって大きく衰退していくことになり、滅亡の時を迎えてしまうことになるのです。

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次回記事:クレタ文明(ミノア文明)とトロイア文明はどちらの方が早く成立したのか?文明の最盛期と考古学的区分に基づく二つの解釈

前回記事:クレタ文明とミノア文明の違いとは?古代ギリシア神話におけるミノス王とクノッソス宮殿の伝説とエヴァンズによる文明の命名

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