ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?③エリート主義と哲人王へとつながる思想
前回書いたように、
ミルの質的功利主義においては、個々の快楽の間の質的な優劣を判断するための根拠として、質において異なるそれぞれの種類の快楽のあり方について十分な知識を持っていることが必要とされることになります。
そして、
そうした質的な優劣の判断の根拠として、適切な判断材料となるための十分な教養と知識を求めるあり方は、
快楽の質的な優劣を判断する主体についても、適切な判断を下すことができる人物は、社会を構成する人々の全員ではなく、十分な教養と知識を持った人物に限定されるという考え方へとつながっていくことなります。
快楽の質的な判断を下すための前提となる十分な知識と教養
快楽の質的な判断を下すために必要な知識や教養とは、具体的にどのようのものか?というと、
それは、身体的快楽よりも精神的快楽、特に、思想や芸術などに関わる知的快楽について、それらの快楽の質を適切に判断するための十分な前提知識が求められると考えられることになります。
例えば、
チョコレートのおいしさを知ってもらうためには、相手が5才の子供や文字の読めない人物であっても、ただ実際にチョコレートを一口食べてもらいさえすれば、そのおいしさはおのずと伝わることになりますが、
同じ5才の子供や文字の読めない人物に対して、プラトンの『ソクラテスの弁明』の良さを伝えようとしてその本を渡しても、当人にはそこに何が書かれているのかすら分からないので、当然、その本の内容の素晴らしさもまったく伝わらないということになります。
また、仮にその本を実際に読んで聞かせて、書かれている言葉の意味を逐一かみ砕いて説明することができたとしても、
哲学思想としても文学作品としても、それを真の意味で深く味わうためには、単なる字義上の意味以上に、様々な前提知識やその人自身の思考の深さが前提として求められることになるので、
やはり、十分な知識と教養を持たない人物が書物を一読しただけでは、そうした本や思想がもつ本来の素晴らしさはなかなかすぐには伝わらないと考えられることになります。
つまり、
快楽の質的な優劣の判断においては、比べられることになる両方の種類の快楽を共に知っている人にしか適切な判断は下せないと考えられることになるのですが、
身体的快楽が誰にでもすぐに享受でき、その快楽の価値が容易に伝わる種類の快楽であるのに対して、
知的快楽に代表される精神的快楽については、それを十分に深く味わうためには予め十分な知識と教養を有していることが求められる種類の快楽であるという点において、両者の快楽の享受しやすさ、価値の伝わりやすさには大きな違いがあると考えられるということです。
そしてそれは、結局、
知的快楽の源となっている書物や音楽、絵画などに表されている思想や芸術などについての十分な知識と教養を有する人物にしか、
快楽の質についての適切な判断を下すことはできないということを意味すると考えられることになるのです。
エリート主義とプラトンの哲人王へとつながる思想
そして、こうした十分な知識と教養有する人々にのみ、快楽の質についての優劣の判断、すなわち、人間社会における快楽と幸福について適切に判断する能力と資格があるとする考え方は、
極端に言うと、
快楽だけではなく、それを享受している人間自身ついても、その能力や資格の質的な差異に基づく階層的な区別があることを認める考え方へとつながっていくとも考えられることになります。
つまり、
快楽自体に身体的快楽と心理的快楽そして知的快楽といった質的な差異としてのある種のレベルの違いや階層のようなものがあるのと同様に、
快楽の質的な優劣について判断し、それぞれの階層の快楽を享受している人間自身においても、知識と教養の多寡や思考の深さに応じた階層的な差異があることを認めることもできるというということです。
そして、こうした考え方は、最終的には、
知識と教養の多寡や思考の深さに基づいて形成される知的な階級の序列に応じて、政治権力の中枢が占められ、そうした知的階層の高い者たちの判断によって社会や国家が導かれていくべきであるとするある種のエリート主義や、プラトンの哲人王の思想といった民主主義に反する思想へとつながっていくとも考えられることになります。
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以上のように、
前回の冒頭で挙げた、二つの異なる種類の快楽の間における質の優劣の判断は、どのような基準で、何を根拠として、また、誰によって下されるべきなのか?という問いへの答えとしては、
両方の快楽についての知識と教養を十分にもつ人物によって、その人物が有する全般的な知識を根拠として、その人物の主観的判断を基準として、判断が下されるべきであると考えられることになります。
そして、
こうした質的功利主義における、知的快楽や精神的快楽を重視し、快楽の質的な判断において十分な知識と教養をもつことを求める考え方を推し進めていくと、一種のエリート主義や、プラトンの哲人王の思想へも通じてしまうように、
それは、民主主義の観点から見ると少し問題がある思想であるとも考えられることになります。
しかし、その一方で、
快楽に質的な視点を導入するという質的功利主義の思想は、次回述べるような別の大きな問題についての適切な解決をもたらす思想であるとも考えられることになるのです。
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次回記事:少数者の犠牲を容認する悪しき力の論理を否定するための思想、ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?④
前回記事:ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?②善悪の判断の基準と根拠となる知識
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