神の存在の道徳論的証明とは何か?カントの実践理性における必然的な要請として神の存在の確信
前回の記事で書いたように、近代哲学の祖としても位置づけられる18世紀のドイツの哲学者であるカントは批判哲学と呼ばれる自らの哲学理論の体系のなかで、
存在論的証明を筆頭とするそれまでの哲学史の流れのなかで提示されてきた神の存在証明の議論のあり方をすべて否定してしまうことになるのですが、
しかし、だからと言って、こうしたこれまでの神の存在証明のあり方を全否定するカント自身が神の存在自体を否定する無神論者であったというわけではなく、
カントは、こうした従来の神の存在証明の議論のあり方に代わるものとして、一般的には、神の存在の道徳論的証明などと呼ばれることもある
カント独自の手法によって人間の道徳的な意志の存在に基づいて神の存在の必然性を示していく一連の議論を提示していくことになるのです。
実践理性の究極の目標である最高善を目指す人間にとって最も幸福な最善の生き方
カントは彼の主著である『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』と呼ばれる三批判書のうちの二番目の書にあたる『実践理性批判』においては、
人間の意識が持つ知性的あるいは理性的な心の働きのなかには、論理的な理性の働きである理論理性のほかにも、道徳的な意志の力に基づく実践理性と呼ばれる理性の働きが存在するという考え方が提示されていくことになります。
そして、
そうした実践理性と呼ばれる理性の働きの究極の目標は、自らの生き方と現実の世界において道徳性を確立していくように実際に行動していくという最高善の理念の内に求められていくことになり、
そうした最高善の実現を目指して自らの道徳的意志に基づいて善い行為を行って道徳的に善い生き方を続けていくことこそが、実践理性の究極の目標と一致する人間にとって最も幸福な最善の生き方として位置づけられていくことになります。
そして、そういった意味では、
こうした実践理性の究極の目標である最高善の理念に基づいて道徳的に善い生き方を続けていくことが人間にとって本当に最も幸福な最善な生き方であるということが実際にその理念の通りに実現していくためには、
そうした最高善の実現を求めて自らの道徳的意志に基づいて善い行為をなす人は、たとえその行為によって経済的または社会的あるいは身体的に不利益を被ることになったとしても、
そうした善い行いを実践するという自らの意志と行為のみによって幸福へと至らなければならないと考えられることになるのです。
実践理性における必然的な要請として神の存在の位置づけ
そして、
このように、人間の心の内なる道徳的意志に基づく最高善の実現とそうした善き意志に基づいて行動する人々の幸福とが完全に一致しなければならないという道徳論的な議論のあり方からは、
さらに、
そうした最高善と幸福との完全なる一致が真実の意味において、現実においても実現されていくためには、
人間の暮らしているこの世界自体が、そうした人間のあらゆる善意志の源にある最高善を体現する存在である神の意志によって創り上げられた本質的にはより善い方向へと向かって展開していこうとする善き世界でなければならないと考えられることになります。
つまり、そういった意味では、
神の存在は、論理的な思考によってその存在を証明することはできなくても、そうした人間の道徳的な意志に基づく実践理性の究極の目標である最高善の存在へと目を向けることによって、その存在を必然的に確信することができると考えられることになるのです。
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以上のように、
こうしたカントによる神の存在の道徳論的証明、より正確には、人間の心の内なる道徳的意志の存在に基づいて示される神の存在の必然的な要請の議論においては、
一言でいうと、
通常の神の存在証明の議論におけるような理論理性による論理的な証明としてではなく、実践理性における必然的な要請として、神の存在の必然性が解き明かされていると考えられることになるのです。
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次回記事:神の存在の目的論的証明とは何か?①新約聖書の「ローマの信徒への手紙」における目的論的証明の原型となる記述
前回記事:カントによる神の存在証明の否定、観念としての「存在」と現実における「実在」を混同する存在論的証明における誤謬推理
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