カントによる神の存在証明の否定、観念としての「存在」と現実における「実在」を混同する存在論的証明における誤謬推理

前回までの一連の記事で書いてきたように、中世から近世へと至るまでの神学や哲学の分野における神の存在証明の議論においては、

アンセルムストマス・アクィナスそしてデカルトといった数々の神学者や哲学者たちの手によって、様々なパターンの神の実在性を論証する議論が提示されていくことになるのですが、

こうした人間の論理的な理性の働きのみによって現実の世界における神の実在性を論証していこうとする神の存在証明の試みは、

近代哲学の祖としても位置づけられる18世紀のドイツの哲学者であったカントの手によって厳しい批判が加えられていくことになります。

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カントによる三つの神の存在証明のパターンの分類と最も論理的な論証のあり方としての存在論的証明の位置づけ

まず、カントは、

これまでの哲学史の流れのなかで登場してきた様々な神の存在証明の議論のあり方を、目的論的証明宇宙論的証明存在論的証明という三つのパターンへと分類したうえで、

前半の目的論的証明と宇宙論的証明はどちらも人間の経験や感覚に基づく論理的な意味においては不確かで不完全な証明のあり方であると考えられることになるので、

神の存在証明の議論はすべて、論理的な意味においては最後に挙げた存在論的証明の議論へと帰着すると結論づけられていくことになります。

そして、

こうした存在論的証明(本体論的証明)と呼ばれる神の存在証明の議論においては、

個々の存在者の個別的・具体的な存在のあり方ではなく、存在そのもの、すなわち、存在という概念本体についての分析が進められていくことによって、神の実在性の論証が行われていくことになるのですが、

カントは、そうした神の存在論的証明の議論のなかでも、その代表格にあたるアンセルムスデカルトにおける神の存在論的証明の議論を念頭において、神の存在証明という試みに対する全般的な批判を展開していくことになるのです。

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観念としての「存在」と現実における「実在」を混同する存在論的証明における誤謬推理

詳しくは前回の記事で考察したように、アンセルムスデカルトによる神の存在論的証明の議論においては、

どちらの場合でも、基本的には、神の存在全知全能なる完全者と定義することによって、そうした完全なる存在として定義された神の存在証明を行っていくことになり、

そこでは、一言でいうと、

完全なる存在として定義された神の存在のうちには、それが何も欠けることのない完全な存在である以上、現実において実在するという属性も欠けることがなく含まれることになるといった形で神の実在性の論証が行われていくことになります。

そして、カントは、

こうした存在や完全性といった概念や観念のみからの純粋な論理展開によって現実における神の実在性を証明していくという神の存在論的証明における議論のあり方は、

観念としての「存在」現実における「実在」とを混同した誤謬推理に過ぎないとして、そうした論証の試み自体を強く否定していくことになるのです。

・・・

以上のように、

18世紀の近代におけるドイツの哲学者であったカントは、それまでの中世から近世の時代において続けられてきた神学論争や哲学論争における神の存在証明の議論のあり方を、

目的論的証明宇宙論的証明存在論的証明という三つのパターンへと分類して、そうした三つの神の存在証明の議論は、論理的な意味においてはすべて最後に挙げた神の存在論的証明の議論へと帰着すると位置づけたうえで、

そうした神の存在論的証明の議論も、観念としての「存在」現実における「実在」とを混同した単なる誤謬推理に過ぎないということを示すことによって、

神の存在証明と呼ばれる人間の論理的な理性の働きによって神の実在を論証する試み自体を理論的理性の越権行為として強く否定していると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:神の存在の道徳論的証明とは何か?カントの実践理性における必然的な要請として神の存在の確信

前回記事:アンセルムスとデカルトにおける神の存在論的証明の違い、完全者としての神の存在という神の定義に基づく神の実在性の論証

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