聖書における三通りの神の存在証明のあり方とは?救済論的証明と目的論的証明そして神と人間の存在の類比に基づく証明
前回までの一連の記事では、主に哲学や神学における神の存在証明の議論における神の実在性の論証のパターンのあり方について一つ一つ詳しく取り上げてきましたが、
今回の記事では、そうした一連の哲学的あるいは神学的な神の存在証明の議論の大本の源流にある聖書自体の記述の内に見いだすことができる三通りの神の存在証明の手がかりとなる議論のあり方について改めて詳しく考察していきたいと思います。
新約聖書の「ローマの信徒への手紙」の記述に基づく神の存在の目的論的証明
まず、
哲学や神学における神の存在証明の議論にも直接的な形でもつながっていくと考えられる聖書の内の記述としては、以前の記事でも詳しく考察したように、
以下のような新約聖書の「ローマの信徒への手紙」における記述を挙げることができると考えられることになります。
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。」
(「ローマの信徒への手紙」1章 20節)
この部分の新約聖書の記述においては、
被造物すなわち神の御業によって目的にかなうように創り上げられた複雑で精緻な構造を持った自然界の事物の姿を目にすることによって、
人間がその背後に存在する全知全能なる創造主の存在に気づくことができるという考え方が示されていると考えられることになります。
そして、このような新約聖書の記述に基づく考え方においては、
そうした自然界における様々な事物の複雑で精緻な構造と合目的的な秩序の存在を通じて、その究極の原因となる全知全能なる創造主の存在が証明されていくことになるという
神の存在の目的論的証明の原型となる考え方が示されていると考えられることになります。
新約聖書の「ヨハネによる福音書」の記述に基づく神の存在の救済論的証明
また、
新約聖書のヨハネによる福音書のなかでは、
「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(「ヨハネによる福音書」3章17節)
という有名なイエスの言葉が記されていて、同じヨハネによる福音書のもう少し後の章では、
「わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」
(「ヨハネによる福音書」12章47節)
という言葉が出てきますが、
こうした新約聖書の記述においては、
イエスが救い主として神のみもとから地上へと遣わされたということが言葉として明かされていると考えられ、
その後、実際に、
イエスが人類を罪から救うためにその身代わりとなって十字架にかけられて死を遂げることによって、そうした父なる神によるイエス・キリストを通じた救済の証が人類全体に対して示されることになったと考えられることになります。
そして、そういった意味では、こうした新約聖書の記述からは、
人々の魂の救済の根拠としての神の存在が、父なる神がその子であるイエスを世の人々を救うために遣わされたという聖書の言葉と、イエスの十字架の死という事実という二つの側面から解き明かされていると考えられることになるのです。
旧約聖書の「創世記」の記述に基づく神と人間の存在の類比に基づく証明
また、聖書の記述をさらに前へとさかのぼっていくと、
旧約聖書の冒頭部分にあたる「創世記」の第一章における以下のような記述からも、そうした神の存在証明へとつながる議論を読み解いていくことができると考えられます。
「神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」」
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
(「創世記」1章26~27節)
こうした創世記の冒頭部分においては、神の手による天地創造の最後の場面の記述において、人間の創造の場面が描かれていくことになりますが、
そこでは、神は自分の姿をかたどり、自分自身の存在に似せて人間を創造したと語られていくことになります。
そして、そういった意味では、
この部分の聖書の記述をそのまま真実として受け入れるならば、神の存在に似せて創られた人間の側から見ると、その作り手である神自身の存在も人間の存在に似ていると捉えることができると考えられることになり、
人間は、自分の外側の世界に神の存在の根拠となる証を求めなくても、この世界の内でもっとも神に似た存在である自分自身の魂の内奥を深く探求していくことによって、その作り手である神自身の存在へと近づいていくことができるとも考えられることになります。
つまり、
こうした旧約聖書の「創世記」の記述に基づく考え方からは、
自分自身の魂や精神の内奥を探求していくというある種の神秘主義的な心理学的探究によって見いだされる神と人間の存在の類比のあり方に基づいて神の存在そのものが解き明かされていくことになると考えられることになるのです。
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以上のように、
こうした旧約聖書と新約聖書における記述から直接的な形で導き出すことができる神の存在証明の議論のあり方としては、
目的論的証明と救済論的証明そして神と人間の存在の類比に基づく証明といった全部で三通りの神の存在証明の手がかりとなる議論のあり方を提示することができると考えられることになるのです。
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次回記事:創世記において人間を創造した神の存在が複数形で記されている理由とは?多次元的な構造を持つ統一体としての神の構造
前回記事:神の存在の目的論的証明とは何か?③インテリジェントデザイン説における偉大なる知性と全知全能の創造主としての神との関係
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