創世記において人間を創造した神の存在が複数形で記されている理由とは?多次元的な構造を持つ統一体としての神の構造

キリスト教やユダヤ教といった宗教は、イスラム教など共に、一つの神のみを信じる信仰を説く一神教に分類される宗教として位置づけられることになりますが、

その一方で、以下において示すような旧約聖書の「創世記」の記述においては、そうした神の存在のあり方が複数形の記述として記されている箇所も見いだすことができます。

それでは、こうした旧約聖書における唯一神であると同時に複数形の形によっても示されている神の存在のあり方は具体的にどのような構造を持った存在として捉えることができると考えられることになるのでしょうか?

「創世記」の人類の創造の場面における複数形としての神の記述と「申命記」や「マラキ書」における唯一神としての記述

旧約聖書の冒頭部分にあたる「創世記」の第一章における神による天地創造と神の手による人間の創造の場面においては、

以下のような形で、神自らが自分自身の存在を複数形の形で語っている場面が記されています。

神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」
(「創世記」1章26~27節)

それでは、

こうした旧約聖書の「創世記」における複数形としての神の存在の記述を、そのままギリシア神話におけるゼウスやヘラ、アポロンやアテナといった

多神教における複数の神々のような存在について語っている記述としてと解釈することができるのか?というと、もちろんそういったわけではなく、

例えば、

旧約聖書の「申命記」においては、

「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。」
(「申命記」6章4節)

と記されているほか、同じく旧約聖書の「マラキ書」においては、

「我々は皆、唯一の父を持っているではないか。我々を創造されたのは唯一の神ではないか。なぜ、兄弟が互いに裏切り、我々の先祖の契約を汚すのか。」

(「マラキ書」2章10節)

と記されていて、ここでは「創世記」において人間を創造した神自身が「唯一の神」として位置づけられているように、

こうした同じ旧約聖書の中の記述においては、神の存在を明確な形で唯一神として位置づけている記述も数多く見いだしていくことができると考えられることになるのです。

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三位一体論における父と子と聖霊の三者の一つの実体としての同一性

それでは、

こうした複数形の形で語られるような複数の姿を持ちながら、それと同時に、自分自身は唯一の存在であるということを明かしている聖書における神の存在とは、具体的にどのような構造を持った存在として捉えることができるのか?ということについてですが、

それについては、一言でいうと、

その後の新約聖書の成立とキリスト教義の確立の過程を通じて4世紀ごろまでに成立したと考えられる三位一体と呼ばれるような神の存在の捉え方にその合理的な解釈のあり方を見いだしていくことができると考えられることになります。

そして、

こうした三位一体ラテン語においてはTrinitas(トリニタス)と呼ばれるキリスト教における神の存在の捉え方においては、

神の存在のあり方は、父なる神子なるキリストそして聖霊という三つの位階すなわち三つの姿として現われながら、

そうした父と子と聖霊の三者は、その本質においては同一の存在、すなわち、一つの実体として存在しているという考え方が提示されていくことになるのです。

旧約聖書における三人の別々の人物の姿を借りて同時に現れる神の記述

もっとも、

旧約聖書のうちの「創世記」や「出エジプト記」といった基本的な書物は、キリスト教においてこうした三位一体の考え方が確立されるはるか昔の紀元前10世紀ごろの時点においてすでに成立していたと考えられるので、

こうした三位一体の考え方を、上記の創世記の記述における複数形の神の存在のあり方に直接的に結びつけて解釈することはあまり適切ではないとも考えられることになるのですが、

その一方で、

旧約聖書の記述のなかにおいても、唯一の存在であるはずの神複数の人物の姿を借りて同時に現れるというのちの三位一体の議論につながるような記述を見いだしていくことができ、

例えば、

旧約聖書の「創世記」において、神がアブラハムの前に現れて、不道徳な行いのためにソドムとゴモラの町を滅ぼそうとすることを告げて、

両者の間で、いったい何人の心正しい人間がその町にいれば、その少数の人々のために町全体の大きな罪を許すべきか?という問答が繰り広げられていく場面においては、

アブラハムの前に現れる神の姿は、三人の別々の人物の姿を借りて同時に現れ、そのうちの二人の人物はそれぞれソドムとゴモラの町へと赴いて現地の実情をはっきりと見定めていくなかで、

もう一人の神の本体の現れとして位置づけられるような人物との間で、上述したような神とアブラハムとの間の問答が繰り広げられていくことになるのです。

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多次元的な構造を持つ統一体としての神の存在の具体的な構造

以上のように、

旧約聖書の「創世記」における人間の創造の場面などで描かれている複数の姿を持ちながらそれと同時に唯一の神としても位置づけられている神の存在のあり方は、

その後の新約聖書の成立キリスト教の教義の確立の過程のなかで明らかとなる三位一体と呼ばれるような神の存在の捉え方にその合理的な解釈のあり方を見いだしていくことができると考えられ、

そうしたのちの三位一体の議論へとつながっていく唯一の神の存在のうちに複数の姿の現れを見るという神の存在の捉え方自体は、すでに、旧約聖書の段階においても見いだしていくことができる考え方であると考えられることになります。

つまり、そういった意味では、

こうした旧約聖書における唯一神であると同時に複数の姿によっても示されている神の存在のあり方は、

本質としては一なる存在でありながら、複数の現れや位階のあり方を持つ存在、すなわち、実体としては一つでありながら、複数の存在様式や属性のあり方を持つ存在として捉えることができると考えられ、

あえて、現代風の言い方をするならば、

こうした神の存在の具体的な構造のあり方は、多次元的な構造を持つ統一体のような存在として捉えることができると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:実体とは何か?①古代ギリシア哲学におけるウーシア(実体)の具体的な意味

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