デカルトによる神の存在証明③完全な能力を持つ存在者としての神の存在証明の議論
前回の記事では、自らの手によって自分自身の存在をも永続的に生み出し続けるという自己原因(カウサ・スイ)としての神の定義に基づくデカルトによる第二の神の存在証明の議論について考察しましたが、
デカルトの手による神の実在性の論証のパターンとしては、さらにもう一つの議論を挙げることができると考えられ、
こうしたデカルトによる第三の神の存在証明の議論においては、第一と第二の証明の議論とはまったく異なった観点から神の実在性の論証を導く議論が展開されていくことになります。
数学的な観念と神の観念のそれぞれにおける不可分な属性
まず、
デカルトは、通常の物理的な事物、その中でも特に、そうした物理的な事物の存在の内に含まれる数学的な観念が持つ明晰判明な不変なる性質に着目したうえで、
そうした数学的な観念と神の観念との比較から第三の神の存在証明へとつながる一連の議論をスタートしていくことになります。
例えば、
「三角形」という観念には、それと不可分な性質として、「内角の和が180度」といった性質が含まれることになりますし、
こうした純粋に数学的な概念ではなくとも、
「人間」という観念には、それと不可分な属性として、「動物」あるいは「生命」といった属性が含まれることになります。
そして、デカルトは、
こうした「三角形」と「内角の和が180度」、あるいは、「人間」と「生命」といった数学的な観念や一般的な観念における観念と属性の不可分な結合のあり方と同様に、
「神」という観念には、それと不可分な属性として、「存在」という属性が必然的に含まれるという議論を展開していくことになるのです。
「完全な能力を持つ存在者」としての神の存在証明の議論
そしてここで、デカルトは、
神の存在を「最高に完全な存在者」、あるいは、そうした最高に完全な全知全能の能力を持つ「完全な能力を持つ存在者」として定義することになるのですが、
すると、
そうした「完全な能力を持つ存在者」としての神の観念のうちには、必然的にそれとは不可分なものとして、「存在」という属性が含まれるとも捉えることができると考えられることになります。
例えば、
ギリシア神話の登場人物である神から不死身の能力を与えられたアキレウスは、その能力が及ばない唯一の弱点であるかかとを矢で射抜かれることによって不死身の力を失って死んでしまうことになるわけですが、
このように、たとえ強大な能力があったとしても、その能力が不完全なものであるとするならば、その能力が欠如した部分においては、その者の存在は失われてしまうことになるので、
そうした通常の人間や物理的な事物が持つ様々な不完全な能力からは、その能力を持つ人物や事物の存在が必然的に論証されるといったことはないと考えられることになります。
しかし、それに対して、
あらゆる意味において完全な能力を持つ存在者においては、そうした不完全な能力を持つ存在者におけるような能力の欠如が生じることは定義上ありえず、
その者はあらゆる意味においてそうした能力の欠如によってその存在が失われてしまうことがないと考えられるので、
そうした完全な能力を持つ存在者には、その者が非存在になる隙がないという意味において、必然的に存在せざるを得ないと考えられることになります。
つまり、
自らの手によって自分自身の存在をも生み出してしまうような完全な能力を持った存在者であるなるならば、
そのような存在者が、自らの内に完全なる能力を有しながら、それと同時に現実において実際には存在しないということは不可能であるという意味において、
そうした完全な能力を持った存在者としての神は存在すると結論づけられることになるのです。
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以上のように、
こうしたデカルトによる第三の神の存在証明の議論においては、
「完全な能力を持つ存在者」としての神の観念のうちには、必然的にそれとは不可分なものとして「存在」という属性が含まれることになり、
そうした完全な能力を持った存在者が自らの内に完全なる能力を有しながらそれと同時に現実において実際には存在しないということは不可能であるという議論に基づいて神の実在性の論証が行われていると考えられることになるのです。
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次回記事:アンセルムスとデカルトにおける神の存在論的証明の違い、完全者としての神の存在という神の定義に基づく神の実在性の論証
前回記事:デカルトによる神の存在証明②自己原因と私の意識の存在の原因としての神の実在性の論証
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