デカルトによる神の存在証明②自己原因と私の意識の存在の原因としての神の実在性の論証
前回の記事では、最も確実で明証的な存在である私の意識の内にある様々な観念の分析を行っていくなかで、
そのなかの無限性と完全性という神の存在の内に含まれている人間の存在を超えた崇高な観念の存在に基づいて神の実在性の論証を行っていくデカルトによる第一の神の存在証明の議論について考察しましたが、
その後、デカルトは、こうした第一の神の存在証明の議論に続いて、再び最も確実で明証的な存在である私の意識の存在からスタートして、第一の議論とはまた別な角度から論証を行っていく第二の神の存在証明の議論を展開していくことになります。
私の意識の存在の確実性は過去や未来においても現在と同様に成立するのか?
前回も書いた通り、デカルトの哲学は、思惟する存在としての私、すなわち、私の意識のことを最も確実で明証的な真理である哲学の第一原理として位置づけることによって全体的な哲学的な理論の体系が組み上げられていくことになるのですが、
そうしたデカルトによる第二の神の存在証明の議論においては、まずは、そうした最も確実で明証的な存在である私の存在とは、どのような意味においてその存在が確実なのか?といった問題から論証の議論がスタートしていくことになります。
そうすると、まず、
「我思う、ゆえに、我在り」(cogito ergo sum、コギト・エルゴ・スム)といった言葉において示されるように、思惟する存在としての私、すなわち、私の意識の存在は、
私が現にいま何かを考えたり認識したりする精神活動を行っているという現時点においては、その存在が最も確実で直観的に明らかであると考えられることになるのですが、
その一方で、
このことは、そうした現にいま何かを考えている確実な存在としての私が、現在よりもほんの一瞬前に、あるいは、ほんの一瞬後においても同様に存在しているということを保証するものではなく、
そういった意味では、
思惟する存在としての私の意識の存在は、私がいま思惟しているという思考の働きが確認されるその都度その存在の確実性が確保されるものであって、
そうした私の意識の存在は、その存在が確かに現時点においては最も確実で明証的であるとはいえ、過去や未来の私の存在については何も確かなことは言えないと言うように、
その存在の確実性と明証性が思惟する瞬間ごとに分断されていく非連続的で断片的な存在であると考えられることになるのです。
自己原因(カウサ・スイ)としての神の存在証明の議論
それでは、
そうした本来、非連続的で断片的な存在であるはずの私の意識が、なぜ実際には連続的で同一的な存在として認識されることが可能なのか?というと、
デカルトの議論においては、それは第一の神の存在証明の議論においても登場した無限者にして完全者である神を原因とすることによって、
そうした神の無限で連続的な創造の働きによって私の意識の存在が常に定立され続けているがゆえにその存在の連続性と持続性が保証されることになると説明されることになります。
つまり、
私の意識が現時点において存在するということは、ほかの何者の助けも必要とせずに私自身の意識の働きのみによってその存在が確実性となるのですが、
そうした私の存在が過去や未来を通じて永続的に同一の存在として存在し続けているためには、無限者である神を原因とする永続的な創造の働きが必要となると考えられることになるのです。
それでは、
そうした私の意識をも含むすべての存在の原因となっている神自身の存在は、いったい何を原因とすることによって生み出されているのか?ということですが、
そこには、神よりもさらに前の根拠へとさかのぼることができるようないかなる原因となる存在も見いだすことができない以上、必然的に、神は自分自身を自らの手によって創造したと考えられることになります。
そして、
そうした私の意識の存在の原因となっている自分自身によって自らの存在をも創り出した自己原因(causa sui、カウサ・スイ)としての神は確かに存在すると結論づけることができると考えられることになるのです。
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以上のように、
こうしたデカルトによる第二の神の存在証明の議論においては、
永続的で同一的な存在としての私の意識の存在の原因となり、自分自身の存在をも永続的に生み出し続けるという自己原因としての神の存在が必然的に存在するという形で神の実在性の論証が行われていると考えられることになるのです。
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次回記事:デカルトによる神の存在証明③完全な能力を持つ存在者としての神の存在証明の議論
前回記事:デカルトによる神の存在証明①無限性と完全性という観念に基づく神の実在性の論証
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