エンペドクレスにおける愛と争いの原理とアナクシマンドロスにおける不正と償いの概念の共通点と相違点
これまでこのシリーズで考えてきたように、エンペドクレスの哲学理論は、
土、水、空気、火という四元素によって自然の総体が成り立っていると考える
四元素説の思想に基づいて組み立てられていくことになるのですが、
エンペドクレスにおいては、これらの万物を構成する四要素が
「愛」と「争い」と呼ばれる二つの力に従って、互いに混合と分離を繰り返すことによって宇宙全体の姿が形づくられていくと考えられていくことになります。
そして、
こうしたエンペドクレスにおける「愛」と「争い」の概念は、
アナクシマンドロスにおける「不正」と「償い」の概念との共通点が多く、
両者の概念は互いに類似する概念として捉えることができると考えられます。
アナクシマンドロスにおける「不正」と「償い」と
エンペドクレスにおける「愛」と「争い」
アナクシマンドロスは、後世において『自然について』(Peri physeos、ぺリ・フィセオース)と称されることとなる彼の著作の断片において、
自然における生成変化を司る原理として、
万物の始源となるト・アペイロン(to apeiron、無限定のもの)と、
そこから生じる相反するもの(ta enantia、タ・エナンティア)同士の勢力の均衡関係について語っていますが、
その断片の中では、以下なような「不正」と「償い」の概念についても言及されています。
存在する諸事物にとって生成がそれからなされる源となるもの、
そのものへの消滅もまた、必然に従ってなされる。
なぜならば、それらの諸事物は、時の定めに従って、
不正の廉(かど)によって、互いに対して罰を受け
償いをなすことになるからである
(アナクシマンドロス・断片1)
つまり、
アナクシマンドロスにおいては、互いに対立する勢力である
相反するもの(タ・エナンティア)同士の間で、
一時的に一方の勢力が過度に増していき、
均衡状態から互いに離れていく過程が「不正」として捉えられ、
それに対して、
過度な不均衡状態から元の均衡状態へと引きつけられて戻っていく過程が「償い」として捉えられていると考えられるということです。
このように、アナクシマンドロスにおいては、ちょうどバネが伸び縮みするように、
宇宙全体が「償い」の力による均衡状態と「不正」の力による不均衡状態との間を常に揺れ動き続ける一種の循環運動と動的な均衡関係において捉えられることになるのです。
一方、
エンペドクレスは、後世においてはアナクシマンドロスの場合と同じように
『自然について』と称されることになる彼自身の著作の中で、
万物の生成変化を司る原理である
「愛」と「争い」と呼ばれる二つの力について以下のように語っています。
混合しやすいすべてのものは
アフロディテ(愛)の力によって互いに似せられて、互いに恋し合う。…
互いに隔たり異なるものは、互いに最も敵対し合い、結ばれ合う習わしをまったくもつことがなく、争いの意を受けて、ひどく不機嫌である。
(エンペドクレス・断片22)
つまり、
エンペドクレスにおいては、
混合しやすい同種の元素や互いに関係が近しい元素の間には、
「愛」と呼ばれる一種の引力が働いて
互いに結びついて融和するようになり、
それに対して、
互いに性質が隔たり異なっている対極に位置する元素同士には
「争い」と呼ばれる強い斥力(反発力、互いに離れ合う力)が働くと
考えられているということです。
そして、
「争い」と「愛」という二つの力は、
アナクシマンドロスにおける「不正」と「償い」という二つの力と同様に、
時の定めに従って、互いの力関係が増減し、
いずれは互いの勢力関係が反転していくこととなり、
「争い」による斥力の力が強い時期には、
四元素のそれぞれがすべて互いに反目し合って
世界全体が敵意に満ちた不和と分裂の不均衡状態に陥り、
それとは反対に、
「愛」による引力の力が強い時期には、
四元素同士が互いの性質の違いを乗り越えて融和し合い、
世界全体に愛が満ちた調和と均衡の状態がもたらされることになるのです。
斥力としての「争い」と「不正」と引力としての「愛」と「償い」
以上のように、
エンペドクレスにおいては、
宇宙全体を構成している四元素のすべてを一なる調和と均衡の状態へと糾合しようとする一種の引力として「愛」という力の原理が捉えられ、
それに対して、それらの四元素を分裂と不均衡の状態へと拡散させようとする
一種の斥力として「争い」という力の原理が捉えられていると考えられるのですが、
それと同様に、
アナクシマンドロスにおいても、
宇宙における適切な均衡状態から離れようとする
遠心力としての斥力が「不正」という概念として捉えられていて、
それに対して、そうした適切な均衡状態へと回帰しようとする
求心力としての引力が「償い」という概念として捉えられていると
考えられることになります。
つまり、両者の思想における二つの概念のそれぞれは、
「不正」と「争い」は斥力へと
「償い」と「愛」は引力へと通じるという
互いに共通点を持った類似する概念であり、
アナクシマンドロスにおける「不正」と「償い」の概念は
エンペドクレスにおける「争い」と「愛」の力に対応する概念として捉えることができると考えられることになるのです。
それに対して、両者の概念の相違点は、
それぞれの概念における力点の置き方の違いに求められることになります。
アナクシマンドロスの「不正」と「償い」という概念においては、
それが均衡状態へと至る過程なのか、それとも反対に均衡状態から遠ざかる過程にあるのかという二つの相反する力の均衡状態との関係の方に重点が置かれているのに対して、
エンペドクレスの「愛」と「争い」という概念においては、
そうした調和と均衡の状態へと近づいたり遠ざかったりする時に働く
引力と斥力という二つの力の原理自体の方により重点が置かれているというところに両者の概念における視点の重心のズレ、相違点があると考えられることになるのです。
・・・
ところで、
こうしたアナクシマンドロスやエンペドクレスといった古代ギリシアの哲学者たちの著作の記述においては、宇宙の生成と変化の原理という極めて自然学的なテーマについて論じられているにも関わらず、
「愛」と「争い」、「不正」と「償い」、さらには「罰を受ける」、「恋し合う」、「ひどく不機嫌」といように、詩的な擬人化の表現が多用されていることに気づくことになります。
そして、
こうした部分が、現代人には少々意味が通りにくい違和感のある表現となってしまっているとも考えられるのですがが、
なぜこうした古代ギリシア哲学の特に自然哲学者たちの学説においては、
このような擬人的な表現や人間関係と自然の秩序が混在したような表現が多く用いられているのか?といったことについては、また次の記事で考えてみたいと思います。
・・・
関連記事(次の記事):
古代ギリシア自然哲学における自然と人倫の融合と論理と韻律の一体化
このシリーズの前回記事:
五行説の相剋と四元素における熱冷乾湿の四項対立の図形的関係、四元素と五行説②
このシリーズの次回記事:宇宙の混合過程と分離過程における二重の生成と二重の消滅、エンペドクレスの宇宙観①
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