知性とは何か?⑧アナクサゴラスからアリストテレスそしてロックとカントへと至る哲学史における知性の概念の変遷のまとめ
このシリーズの初回から前回までの一連の記事で考察してきたように、
知性と呼ばれる概念は、古代ギリシア哲学におけるピタゴラスやアナクサゴラスにおける哲学思想から、アリストテレス哲学を経て、近代におけるロックやカントにおける認識論哲学へと至るまでの間に、
その概念が持つ具体的な意味内容のあり方が大きく変化していった概念であると考えられることになります。
そこで、今回の記事では、
これまでに書いてきたこうした哲学史における知性の概念の捉え方の変遷のあり方について、改めてまとめていく形で考察していきたいと思います。
ピタゴラスとアナクサゴラスの哲学思想におけるヌースとしての知性の原理
まず、このシリーズの初回の記事でも書いたように、
知性と呼ばれる概念は、もともとは、ギリシア語におけるnous(ヌース)という単語に由来する言葉であると考えられることになるのですが、
こうしたギリシア語におけるヌース(nous)という言葉は、同じギリシア語におけるロゴス(logos)といった言葉と共に、
もともとは、どちらも人間の認識や世界の存在のあり方を秩序づけている万物の存在の大本にある根源的な原理のあり方のことを意味する概念として用いられていた言葉であると考えられることになります。
そして、こうしたヌースとしての知性の概念は、
まずは、ソクラテス以前の哲学者として位置づけられているピタゴラスやアナクサゴラスといった古代ギリシアの哲学者たちの哲学思想のなかで、その概念ついての哲学的探究が進められていくことになるのですが、
詳しくはこのシリーズの第二回の記事で書いたように、
紀元前6世紀の古代ギリシアの哲学者にして数学者や宗教家でもあったピタゴラスの哲学思想においては、
ヌースとしての知性の存在は、万物の根源に存在する数学的な原理を司る力として捉えられていくことになります。
そして、その後、第三回の記事で書いたように、
紀元前5世紀の古代ギリシアの哲学者であったアナクサゴラスの哲学思想においては、
こうしたヌースとしての知性の存在は、原初的な混合状態にあった宇宙に対して最初の運動を与え、宇宙全体の回転運動を支配することによって宇宙の内に存在するすべての事物に適切な秩序と配置をもたらすという働きを担う
宇宙全体の秩序を司る根源的な原理のことを意味する概念として位置づけられていくことになるのです。
アリストテレスの哲学体系における能動知性の存在とアヴェロエスにおける知性単一説
そして、その次に、詳しくはこのシリーズの第四回の記事で書いたように、
紀元前4世紀の古代ギリシアのアテナイの哲学者であるアリストテレスの哲学体系の内においては、
知性は、理性における論証的な推論によらずにもたらされる直観的に把握される知のあり方として捉えられたうえで、
そうした直観的な知をもたらす知性の働きのあり方は、
受動知性(可能知性)と呼ばれる知覚や感覚といった感性的な直観に基づく受動的な知のあり方と、
能動知性と呼ばれる身体的な感覚に依存せずに対象そのものの本質を直観的に把握していく知的直観に基づく能動的な知のあり方という二つの知性の働きのあり方へと区分されていく形で捉え直されていくことになります。
そして、
アリストテレスの哲学体系においては、
こうした能動知性と呼ばれる知のあり方は、それが身体的な感覚に基づく知のあり方だけではなく、論証的な知のあり方をも超えた知のあり方であるという意味において、
それは、アリストテレスの哲学において不動の動者や第一動者として位置づけられている神における知のあり方へと通じる神的な知性のあり方としても捉えられていくことになるのです。
そして、第五回の記事で書いたように、
こうした古代ギリシアにおけるアリストテレスの哲学理論を中世ヨーロッパのスコラ哲学へと導入していく役割を担ったイブン・シーナー(アヴィケンナ)やイブン・ルシュド(アヴェロエス)といったイスラム世界の哲学者たちの哲学思想においては、
そうした一なる神の存在の内にある能動知性の存在に対応する人間の認識における可能知性の存在についても、それが一なる存在であると考えるのが整合的な解釈であるとするアリストテレス哲学の解釈に基づいて、
人間の魂における可能知性の存在も究極的には全人類に共通するただ一つの普遍的な知性の存在の内に求められていくことになるという知性単一説と呼ばれる知性の存在についての捉え方が形成されていくことになるのです。
ロックにおける理解力としての知性の定義とカントの認識論哲学における知性概念の位置づけ
そして、このシリーズの第六回の記事で書いたように、
こうしたアヴェロエスにおける知性単一説や、その後のスコラ哲学における普遍的な存在としての知性の存在の捉え方に対して、
14世紀のイギリスのスコラ哲学者であるオッカムの哲学思想においては、
現実の世界において実在するものは一つひとつの個別的な事物の存在のみであって、普遍的な概念の存在は人間の心における言語的な認識の内にある語や名称として存在しているにすぎないとする唯名論へとつながる考え方に基づいて、
認識論の議論においても、一人ひとり人間の心の内にある個別的な知性の存在のあり方を人間における認識の原理として位置づけていくという近現代の認識論哲学へと通じる知性の概念の捉え方が示されていくことになると考えられることになります。
そして、第七回の記事で書いたように、
こうした人間の心の内にある個別的な知性の存在としてのみ知性と呼ばれる概念のあり方を理解していくというオッカムにおける知性概念の捉え方は、
その後の近代哲学におけるイギリス経験論を代表的する哲学者であるロックや、ドイツ観念論の祖として位置づけられるカントの哲学のうちへと引き継がれていくことになり、
こうした近代哲学を代表する哲学者であるロックやカントの認識論の議論においては、
知性と呼ばれる概念は、一義的には、人間の心における理解力のことを意味する概念として捉えられたうえで、
それは、身体的な感覚や知覚に依存する感性的な認識の働きと、論理的な推論の働きによって認識に統一をもたらす理性的な認識の働きの媒介者として位置づけられる
感性と理性の中間に位置する人間の意識における概念把握を主体とする認識作用のあり方として捉え直されていくことになると考えられることになるのです。
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以上のように、
知性と呼ばれる概念は、
古代ギリシアの哲学者であるピタゴラスやアナクサゴラスの哲学思想における宇宙全体の秩序を司る根源的な原理のあり方のことを意味するヌースとしての知性の存在にはじまり、
アリストテレスの哲学体系における神的な知性としての能動知性の概念や、アヴェロエスとその後のスコラ哲学における知性単一説の議論を経て、
オッカムの唯名論に基づく個体主義的な知性観と、ロックやカントの認識論哲学へと至るまで、その具体的な定義のあり方が大きく変遷していった概念であると捉えられることになります。
そして、そういった意味では、
現代の哲学や心理学の分野においては、知性と呼ばれる概念は、
一義的には、
こうした近代哲学を代表する哲学者であるロックやカントの認識論哲学において示されている人間の意識における概念把握を主体とする認識作用のあり方のことを意味する概念として捉えられていくことになると考えられることになるのです。
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次回記事:知性と理性の違いとは?古代ギリシア哲学とカントの認識論哲学における知性と理性の具体的な意味の違い
前回記事:知性とは何か?⑦ロックとカントの哲学における概念的な理解力としての知性の定義と感性と理性の中間に位置する心の働き
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