真理へ至るための3つの道⑤哲学の欠陥と超越の道による調停

前回までの「肯定の道①」と「否定の道②」に続いて、

哲学的真理の論理的探求においては、

肯定の道」と「否定の道」のどちらにも当てはまらない、

超越の道」がある
と書きましたが、

それでは、

それは、いったいどのような道なのでしょうか?

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「ある」と同時に「あらぬ」という道

超越の道」とはどのような道なのか?

ということについて、
簡潔に言ってしまうと、

それは、

あることを真理であると肯定しつつ、
同時に、それは真理ではないと否定する道、

つまり、

肯定と否定は両立する

と言っている道ということになります。

これは、裁判でいうならば、

裁判官が、

被告人は、この殺人事件の
犯人であると同時に犯人ではない

よって、判決は
死刑であると同時に、無罪放免である

と言っているようなものなので、

通常の論理では、

単なる矛盾論理破綻
意味の通らない無茶苦茶な主張ということになってしまいます。

しかし、

哲学の場合

定義すること自体が難しい、
難解で抽象的な概念を前提として議論が始まり、

論理的思考を極限まで働かせて、
より複雑に絡み合った道へと議論が入り込んでいくので、

このような、一見、
矛盾した論理破綻と思われる論理形式を使うことも
必要になると考えられるのですが、

このことをより正確に説明するためには、

哲学と他の通常の学問との

学問としての論理的な構造の違いについて
考えておくことが必要となります。

そして、この違いについて考えていくために、

まずは、

通常の学問において、
論理的な議論がどのように進んでいくのかということを
考えてみることにします。

通常の学問における論理的な議論の進め方、歴史学の例

通常の学問では、まず、

その学問が扱う知の範囲である、
学問分野定義され、

さらに、

その学問を進めていくにあたって必要となる、

前提となる概念
明確に定義されていくことになります。

例えば、

歴史学という学問の場合、

それは、

過去の史料の検証などを通じて、
人間社会が経てきた変遷や発展のあり方を追究する学問、

というように定義することができます。

そして、

個々の歴史の内容について論じるにあったっても、

それについて議論するための
前提となる概念は、
具体的かつ明確に定義されていくことになります。

例えば、

紀元前1世紀頃のローマによるガリア征服戦争について論じるならば、

その議論の前提として、

共和政ローマは、
紀元前509年のエトルリア人王政の打倒から、
紀元前27年のオクタウィアヌスにによる帝政の開始までの、

イタリア半島の都市国家ローマを中心に発展した、
古代ローマのことを指すと、

明確に定義されることになりますし、

ガリア戦争の担い手である将軍カエサルとは、
共和政ローマ期の政治家、軍人であり、

ガリア地方の属州の総督として、ガリア戦争を戦って、
その記録を『ガリア戦記』に残し、

のちに、
賽(さい)は投げられた」と言ってルビコン川を渡り、
終身独裁官となってローマの全権力を一手に握るが、

その権力の強大化を恐れた元老院の議員たちによって暗殺を企てられ、

臨終に際して、暗殺者の一団に、
自らが信頼し厚遇していたブルータスも加わっているのを見て、
ブルータス、お前もか!」と叫んだ、とされている

あのガイウス・ユリウス・カエサル
その人であると、

こちらも具体的に明確に定義されることになります。

もっとも、

オクタウィアヌスは、皇帝ではなく、プリンケプス元首)として
ローマを統治したので、
紀元前27年をもって帝政ローマの開始とするのは間違いである、

とか、

カエサルは暗殺者に短剣で襲われている最中に、
言葉を発する余裕などなかったはずなので、

「ブルータス!」と言ったとされるのは、
後世の人たちによる脚色なのではないか?

といったように、

歴史的事実を構成する
個々の概念については、

その真偽に疑問が呈され、修正がなされていくことも
あるわけですが、

その場合でも、

都市国家ローマはイタリア半島にあったとか、

カエサルは紀元前1世紀の共和政ローマの軍人、政治家である、

といった、

残りの膨大な基本的概念の具体的な定義は
そのまま保持されることになるので、

この場合でも、

具体的で明確に定義された
前提となる概念の共通理解のもとで、

議論は、進んでいくことになります。

したがって、

議論が白熱して、感情面での冷静さを失わない限りは、

議論がかみ合わなくなるほど、議論する人双方の
前提となる概念の定義が大きくずれていくという事態は
考えられません。

このように、

歴史学などの、哲学以外の通常の学問では、

具体的で明確に定義された
前提となる概念共通理解のもとに、

整然とした論理的な議論が進んでいくと考えられるのです。

抽象的な概念と、定義の不一致の問題

一方で、これが

哲学という学問の場合、
その状況は大きく異なることになります。

まず、

議論の前提となる概念について考えるために、
哲学の議論の中でよく出てくる概念を思いつくままに並べてみると、

存在、認識、対象、観念、経験、超越、普遍、実存、
神、魂、自我、意識、物体、精神、心、生命…

などというように、
抽象的な概念ばかりが並んでしまい、

それぞれの概念について、議論する人が、
共通の認識をもつことすら難しい

という問題が生じます。

例えば、

神は存在するのか?」という
哲学的な命題について議論するためには、

その前提として、

という概念について、みんなが
ある程度共通した認識をもっていないと、

そもそも、議論自体が成立しませんが、

」という概念について考えるとき、

人間の死後に、
天国にいくか地獄に行くかの裁定を下すような、
超越的な人格神を想定する人もいれば、

ロゴス、すなわち、
言葉や論理・理性の働き自体がである、
と考える人もいますし、

汎神論のように、
世界のすべての存在に神が宿っている

あるいは、

世界のすべての存在は神の内に在る

と考える人もいるというように、

人々がイメージする神の定義は、それぞれにバラバラで、
共通する理解が形成されていません。

このように、哲学では、

議論の前提となる、
基本的な概念についてすら、

議論する人が、それぞれに
異なった定義を考えていることが多いので、

そのまま議論を始めても、
いっこうに話がかみ合ってこず、

しまいには、互いに相手が、
何について論じているのかも分からなくなってしまう、といった

混乱した事態に陥ってしまう危険性が高い
と考えられるわけです。

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哲学という学問の欠陥と自由さ

このように、哲学では、

議論の前提となる概念について、
具体的かつ明確に定義することができず

議論する人同士で
共通理解を得るのが難しいという問題があるのですが、

それに、輪をかけて問題となるのは、

哲学においては、

通常の学問のように、
自分自身が取り扱う学問分野を定義すること
さえも難しい、

ということがあります。

つまり、

哲学は、

自分が何をする学問であるのか、
自分自身でもあまりよく分かっていない

ということです。

もちろん、

哲学は、
真理を探究し、
世界の根本原理を追求する学問であり、

知識を体系化し、
他のすべての学問の根底をなす学問である、

といった、哲学についての
一般的な定義を並べることは可能なわけですが、

こうして並べた定義の字面を見ればわかる通り、

この哲学を定義する言葉自体が、
それ自身の定義がはっきりしない
抽象概念のオンパレードになってしまっているので、

結局、

個人の解釈の仕方次第では、

人生哲学や、恋愛哲学、ちょっとした日常会話まで、

人間が考える
ほとんどすべての思考の営みが哲学であるとも言えるし、

それと同時に

そんなものは到底哲学ではないとも言えてしまうわけです。

このように、

学問の前提となる基本的な概念についてすら、議論する人同士の
共通理解を得られるような明確な定義が与えられず、

哲学という学問自体の定義も
抽象的不確かである、

ということに、

哲学という学問の
特殊性自由さがあるとも言えるのですが、

それとと同時に、こうした問題が、

哲学において、
誰もが納得するような
整然とした論理的な議論を進めていくことを
難しくしてしまう原因ともなっていて、

それが、学問としての哲学の
論理的な欠陥でもあると考えられるのです。

論理的な欠陥の調停としての超越の道

以上のように、

哲学には、

学問の前提となる基本的な概念についての
定義抽象的不確かであり、

それについての
共通理解も得られにくいという

学問としての
論理的な欠陥があるので、

通常の学問におけるような論理形式だけで
議論を進めていくと、

肯定の道」と「否定の道」が互いに交錯し、
衝突してしまう局面が現れてくることになります。

つまり、

前提となる基本的な概念についての認識が、議論する人同士で、
大きくずれてきてしまうために、

一方の論理的思考では、必然的に
真理であると肯定されることが、

もう一方の論理的思考では
真理ではないと真っ向から否定されていしまい、

どちらも、互いの主張を一歩も譲らないという
こう着状態に陥っていしまうということです。

そして、

こうした問題を解決して、
議論を前へと進めるために、

肯定の道」と「否定の道」という
通常の論理の外側に立って、

両者の調停を行う、

言わば、
メタ論理」(「メタ」は、超越した高次の、という意味)

のようなものとして、

第3の道としての
超越の道」の存在が要請されることになるのです。

つまり、

超越の道」は、

ただ、肯定と否定が両立するという、
矛盾した結論だけを提示しているのではなく、

その真偽が議論の対象とされている命題について、

それが、

ある意味では、真理として肯定されるが、同時に、

別の意味では、真理ではないと否定される、

というように、

両者の主張の調停を行う、

哲学的真理の探求のための
第3の論理形式であり、

このように、

肯定の道」と「否定の道」という
両者の論理の調停を行い、

概念の整理
正しい位置付けを行うのが、

超越の道」の本来の役割であると考えられるということです。

・・・

そして、

この道は、

カントフィヒテヘーゲルといった

ドイツ観念論の哲学者たちによって、

その思考の道筋が
大きく切り開かれていったので、

この「超越の道」について、

それがどのような道であるのか、
さらに具体的に捉えていくためには、

彼らの哲学がどのような思考の経路をたどるものであったのか、
その論理的思考の道筋に迫っていくことが必要となります。

・・・

このシリーズの次回記事:
真理へ至るための3つの道⑥カントの超越論的観念論による実在論と観念論の調停

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