真理へ至るための3つの道④胡蝶の夢とデカルトとの方向性の違い

前回の「デカルトの方法的懐疑と夢の中の認識」では、

夢の中での自分がいる場所と、身体の認識から、
自らの身体の存在さえも懐疑することで、

我思う、ゆえに、我在り」という
絶対的に確実な真なる認識に至りましたが、

現実の世界と夢の世界には、

認識において、
明確な区別はないのではないか?

という問いについては、

再び、東洋思想の方へ戻って、

荘子の「胡蝶の夢」のたとえが、
その本質をよく指し示していると思います。

スポンサーリンク

胡蝶の夢と万物斉同

荘子荘周)は、

老子と共に、
道教の始祖の1人ともされている

紀元前4世紀頃の中国の思想家ですが、

その荘子は、自身の著作である

荘子』の内篇「斉物論第二」において、

以下のように述べています。

昔者荘周夢に胡蝶と為る栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり
自ら喩しみて志に適えるかな。周たるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、則ち蘧々然(きょきょぜん)として周なり。
知らず周の夢に胡蝶と為れるか胡蝶の夢に周と為れるかを
周と胡蝶とは、則ち必ず分有らん。此を之れ物化と謂う。

 (『荘子』内篇「斉物論第二」)

この書き下し文を
少し哲学的な問いを意識して、
現代語訳してみると以下のようになるでしょうか。

昔、私、荘周が夢を見たとき、
私は夢の中で胡蝶となっていた
私は生き生きとした蝶であった
自分でも楽しくて、心ゆくばかりにひらひらと舞っていて、
自分が荘周であることは、すっかり忘れていた。

しかし、急に目が覚めてみると
我に返って自分は荘周であったと気づくのである。

荘周が夢の中で胡蝶となっていたのか、それとも、
胡蝶の方が夢の中で今の荘周になっているのか、私には分からない。

常識では、荘周と胡蝶との区別ははっきりしているはずなのだが、
よくよく考えてみると、そうではないのである。

これが万物の変化というものである。

つまり、

常識では、現実の世界と夢の世界とは、
当たり前のように区別されているが、

夢を見ていた時の気分を思い出して、
よくよく考えてみると、

夢の世界の方が本当は現実だったのかもしれず、
現実だと思っている世界の方が実は夢の中なのかもしれない、

そもそも、

現実と夢という
区別自体が定かではなく

自分はある時は胡蝶となり
別のある時は人間となっているに過ぎないのである、

そして、このように、

すべての存在は常に変化し移ろっていくので、
永遠不変のものなど、どこにも存在しない、

ということです。

このように、

夢の中の認識を思い起こすことを通じて、

普段は当たり前のように思っている
経験的知識を懐疑して覆していく

という発想は、


デカルトの夢の中の幻の身体の認識
で考えられていた議論にも
通じるところがあるように思います。

そして、荘子は、こうした「胡蝶の夢」の議論などを通じて、

善悪、真偽、美醜といった、人間が有する
すべての価値観は、相対的なものであり、

すべての存在は混然一体となっていて、

価値において優劣はなく、
みな等しく同価値であるという、

万物斉同(ばんぶつせいどう、一切斉同)」

という真理を見いだすのです。

スポンサーリンク

自我の一貫性と、無為自然と逍遥遊

しかし、

ここから荘子がたどる思考の道筋は、

デカルトの思考の方向性とは
大きく異なる方向へと進んでいくことになります。

デカルトの場合は、

そうした、現実のすべてが夢幻に帰してしまうような、
あらゆる変化、あらゆる懐疑を経ても、

一貫して確実なものとして存在し続ける、
思惟する者としての私自我の存在

というところに焦点が当てられ、

思惟する存在である自我という、
絶対的に確実で真なる認識を立脚点として、

そこから、新たな哲学的真理を求める
さらなる論理的探求へと向かっていくのですが、

荘子の場合は、

そうした、あらゆる変化を通じても、
一貫して存在し続ける思惟する者としての私、

すなわち、

自我の存在の確実性と一貫性

ということは認識されながらも、そこには、
あまり焦点が当てられず、

むしろ、

万物は変化し、次々に移ろっていき、
この世界の内には確実なものなどどこにもないのだから、

善悪や優劣といった価値観に基づく
人為的なこだわりは捨てて、

自分の、そして、世界の
ありのままの姿をありのままに受け入れよう

という方向へと思考が進んでいくことになります。

胡蝶の夢」では、

それが「荘周」であろうと「胡蝶」であろうと、
自分は自分として一貫して存在し続けているからこそ、

夢から覚めたときに、
あの夢の中の蝶が、今は起きて人間の「荘周」となっていると
気づくこともできるわけですが、

荘子は、このように、
夢の世界と現実の世界とで、
自分は自分として一貫して存在していることは認めつつも、

その自我の存在の一貫性を拠り所にして、
さらなる真理への論理的な探究のために頭をこねくり回そうとするのではなく、

そこから、

胡蝶であろうと、人間の荘周であろうと、
自分は自分であるのだから、

蝶のときは、蝶である自分を受け入れてそれを楽しみ、
人間であるときは、人間であることを楽しむ、というように、

自分のありのままの姿をありのままに受け入れ

社会から押しつけられる
人為的な価値観や目的意識には束縛されずに、

自分の自然の本性に即して生きる

逍遥遊(しょうようゆう)」

という自由な生き方の境地に至るのです。

この逍遥遊という概念は、

より有名な老子の言葉でいうと、

無為自然(むいしぜん、人為的な作為を働かせずに、自然のままであることを受け入れる生き方)」

とほぼ同じ意味になります。

このように、荘子の思考は、
デカルトと同じように、

夢の中の認識を発想の端緒として、
常識経験的知識を疑い、それを覆していくという

論理的な思考形式としては
同じ否定の道」を歩んではいるのですが、

デカルトが、どこまでも、
人知、すなわち、人為による
真理の論理的探究の道を、かたくなに真っ直ぐに歩み続ける

のに対して、

荘子は、

万物斉同という真理の認識から、

自分や世界の
ありのままの姿をありのままに受け入れよう、という

人生哲学や
人間の生き方の問題へと進み、

無為自然逍遥遊という、

宗教的な悟りといってもいいような
境地へと到達していくのです。

・・・

ここまでで、

個々の哲学者の思考や、
思想の例を挙げて説明してきたように、

通常、真理の探究では、

論理的思考の道筋である、
肯定の道」か「否定の道」のいずれかの道を進みながら、
その思考を進めていくことになります。

そして、

数学における
通常の証明背理法の関係や、

裁判における
犯行証明アリバイ証明(犯行現場への不在証明)の関係のように、

通常の論理では、論理的思考の形式は、

肯定の道」か「否定の道

のいずれかに必ず含まれることになるのですが、

こと哲学に関する限りは、
そのどちらの道にも当てはまらない第3の道として、

肯定の道」と「否定の道」の両者を調停し、
議論を新たな次元へと引き上げていく力をもった

超越の道」についても、さらに考えていくことが必要となります。

・・・

このシリーズの次回記事:
真理へ至るための3つの道⑤哲学の欠陥と超越の道による調停

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ