カリアスの和約とペルシア戦争の完全終結に至るまでのアテナイとスパルタを中心とするギリシア連合軍の反撃

前回までに書いてきたように、アケメネス朝ペルシアがヨーロッパ方面への領土拡大を目指して行ったギリシア世界への大規模な遠征としてのペルシア戦争は、

クセルクセス1によって行われた第三回ギリシア遠征におけるペルシア軍の大敗によって幕を閉じることになるのですが、

その一方で、アケメネス朝ペルシアと、アテナイやスパルタといったギリシア諸都市との間では、その後も互いの勢力の境界線をめぐる争い長期間にわたって続いていくことになります。

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ミュカレの戦いからビュザンティオン包囲戦までのスパルタ率いるギリシア連合軍の進撃

カリアスの和約へと至るまでのペルシア戦争におけるギリシア連合軍の反撃

紀元前480サラミスの海戦とその翌年のプラタイアの戦いに敗れることによって、ペルシア軍の大部分の部隊がペルシア本国へと引き上げていくことになると、

アテナイスパルタを中心とするギリシア艦隊は、アナトリア半島南西部のイオニア地方に位置するギリシア人植民市の解放を目指してペルシア軍に対する反転攻勢へと動いていくことになります。

そしてその後、

スパルタの将軍であるパウサニアスによって率いられたギリシア艦隊は、

紀元前479年に行われたミュカレの戦いによってペルシア軍を破ることによって、イオニア地方のギリシア人植民市ペルシア帝国の支配から解放して再びギリシア世界の内へと組み入れていくことになり、

さらにその後、

翌年の紀元前478に行われたビュザンティオン包囲戦にも勝利することによって、マケドニアからトラキアへと至るヨーロッパの大部分の地域がペルシアの支配から解放されてギリシア諸国の勢力圏のうちへと入っていくことになるのです。

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エイオン包囲戦からエウリュメドン川の戦いまでのアテナイ率いるギリシア連合軍の進撃

そして、その後、

パウサニアスがペルシアへの密通の疑いをかけられることによって失脚すると、ギリシア艦隊の指揮権はスパルタからアテナイへと移っていくことになり、

アテナイを中心とするギリシア連合軍は、

紀元前475に行われたエイオン包囲戦において、ペルシア戦争の余波により一時的にペルシア軍に占領されていたトラキアの都市であったエイオンを解放してこの地域における支配権を確固たるものとしたうえで、

紀元前466に行われたエウリュメドン川の戦いにおいては、イオニア地方からさらに東の奥地へと踏み入ったペルシア帝国の勢力圏となるパンヒュリアの地においてペルシアの艦隊を全滅させるという輝かしい勝利を手にすることになるのです。

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エジプトの反乱への介入とギリシア連合軍による遠征の失敗

そして、さらにその後、勢いに乗ったギリシア連合軍は、

紀元前459にペルシア帝国に対するエジプトの反乱が起きた際に、この反乱に乗じてエジプトをもギリシアの勢力圏へと組み入れるという野望を抱いて、反乱軍を支援するために、200隻もの軍艦から成る大規模な遠征軍エジプトへと派遣することになります。

しかし、こうしたエジプトの反乱をめぐるギリシア連合軍の遠征においては、ペルシアの将軍であったメガビュゾスが率いるペルシア軍からの手強い反撃に合うことによって、ギリシア軍は大きな損失を受けたうえで撤退を余儀なくされることになります。

こうして、ペルシア帝国ギリシア諸国の両方の側から行われた大規模な遠征計画は、どちらも大きな成果を上げることができないまま失敗に終わることによって、

どちらの側も相手に対して決定的な打撃を与えることができないままペルシア戦争膠着状態へと陥っていくことになっていったと考えられることになるのです。

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カリアスの和約とペルシア戦争の完全終結

そして、その後、

紀元前450に行われたキュプロス遠征においては、アテナイを盟主とするデロス同盟と呼ばれるギリシア連合軍の軍勢が勝利をおさめることになると、

それをきっかけとして、両陣営の間に、こうした長期間にわたって続く無益な戦いを終結へと導くための和解へと向けた機運が高まっていくことになります。

そして、古代ギリシアのシケリア島生まれの歴史家であるディオドロスや、アテナイの弁論家であったデモステネス、あるいは、古代ローマ時代のギリシア人著述家であったプルタルコスといった人々の記録や証言によれば、

ギリシア連合軍によるキュプロス遠征が行われた翌年にあたる紀元前449に結ばれたとされているカリアスの和約によって、両者の間に講和条約が結ばれることになったと伝えられています。

カリアスの和約においては、

アケメネス朝ペルシアの王であるアルタクセルクセス1と、アテナイを盟主とするギリシアのデロス同盟との間で、

ペルシア帝国イオニア地方を中心とするアナトリア半島のギリシア人諸都市の自治を承認したうえで、エーゲ海の中央部に位置するキクラデス諸島よりも西にペルシア艦隊を侵入させないことを約束する代わりに、

アテナイを中心とするデロス同盟の軍隊もペルシア帝国の領内には侵入しないといった内容の講和条約が結ばれたと伝えられています。

もっとも、

こうしたカリアスの和約と呼ばれる講和条約の内容については偽作の疑いもかけられていて、

この前後の時代におけるギリシアの歴史を詳細に記しているアテナイの歴史家であるトゥキディデスまったく言及していないことから、

こうしたカリアスの和約と呼ばれるペルシア帝国とデロス同盟との間に結ばれた講和条約の存在自体を否定する見解も古くから指摘されています。

しかし、いずれにしても、

こうしたカリアスの和約の直接的なきっかけとなったともされているギリシア連合軍によるキュプロス遠征以降、

歴史上の記録においては、ペルシア帝国ギリシア世界との間での戦いは一切行われることがなくなるので、

こうした紀元前450に行われたキュプロス遠征を一つのきっかけとすることによってペルシア戦争は完全終結へと至ることになったのは確かだと考えられることになるのです。

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