真理へ至るための3つの道⑥カントの超越論的観念論による実在論と観念論の調停

前回述べたように、

哲学においては、

肯定の道」と「否定の道」という
通常の論理だけでは、

両者の論理が交錯して

こう着状態に陥ってしまうことがあるので、

第3の道である、
超越の道」によって、

両者の主張の調停を行い、

概念の整理と、両者の主張の
正しい位置付けを行うことが必要と考えられるわけですが、

この2つの相反する
同等に論理的に正しい主張


メタ論理的に調停する
という意味での、
超越の道」という論理形式は、

ドイツ観念論および近代哲学の祖とされる、
18世紀のドイツの哲学者

イマヌエル・カント

超越論的観念論という考え方によって、
確立されたところが大きいと考えられます。

このカント超越論的観念論という考え方が
どのようなものであったのか、ということを
把握するためには、

その前に、カントは、

どのような哲学史の流れのなかで、

どのような2つの立場の間を調停しようとしたのか、

ということについて、
具体的に知っておく必要があります。

なので、まずは、

カントが現れる直前
哲学界の状況がどのようなものであったのか、

考えてみることにしましょう。

スポンサーリンク

事物の実在が先か、観念の存在の方が先か?

17世紀
デカルトの方法的懐疑により、

あらゆる事物や世界全体の存在に先んじて

思惟する者としての
自我・意識の存在こそが、

最も確実で真なる認識であり、
真理であるという

哲学の第一原理

が発見されて以降、哲学界では、

自我・意識の存在、

そして、

その意識の中にある
観念の存在、

というのが、
クローズアップされていき、

人間の意識の働きや観念から、

現実の世界の事物の実在のあり方を
説明しようとする、

観念論

という考え方が、
哲学界の主流となっていきます。

つまり、

人間の認識においては、

現実の世界における
事物の実在よりも

頭の中の
観念の存在の方が

先立って存在している、

と考えられるようになっていった、ということです。

しかし、

経験的な認識に即して考えると、

例えば、

机の上にリンゴが置いてあるのが見える

という経験・認識があるとき、

現実の世界で、
実際に、事物としてのリンゴが、
机の上に実在しているから、

その事物としてのリンゴを
実際に目で見て

その後で

自分の頭の中に、
机の上にリンゴがある

という観念が生じるのであって、

その反対に、

頭の中に
机の上にリンゴある

という観念が浮かんだら、

その後で、
現実の世界の机の上にも
リンゴが、ポンと現れた

という順序では、断じてないはずです。

つまり、

経験的認識に基づいて考えると、

当たり前のことではありますが、

頭の中の
観念の存在よりも、

現実の世界における
事物の実在の方が、

先立って存在しているとしか思えない、
ということです。

このように、

デカルトの「哲学の第一原理
に基づくと、

自我・意識の存在は、
他の全ての存在に先立つので、

意識や観念の存在は、
事物の実在に先立つが、

その一方で、

一般的な経験的認識に基づいて考えると、

現実の世界の
事物の実在の方が、

人間の頭の中の
観念の存在よりも先にあるとしか考えられない、

という、

同等に正しい
2つの論理的主張の対立が

生じてしまっていて、

カントの超越論的観念論が登場する直前の
18世紀の哲学界は、

現実の世界における
事物の実在が先か、

それとも、

頭の中の
観念の存在の方が先か、

という

事物の実在と観念の存在についての

卵が先かニワトリが先か

堂々めぐりのこう着状態
陥ってしまっていたと考えられるのです。

スポンサーリンク

カントの超越論的観念論による調停

そして、

この2つの
同等に論理的に正しい主張の

調停に乗り出したのが、

カント超越論的観念論

ということになります。

ちなみに、超越論的観念論
超越論的transzendental)」という概念は、

経験に拠らず、経験を超越した
認識のカテゴリー・形式

といった意味の概念であり、

一般的な日本語で言うと、
先験的経験に先立つ)」という言葉と
ほぼ同義の概念になるので、

ここでは、言葉の意味自体としては、
2つの論理的主張を超越してその調停を行う、

といった意味で「超越」という言葉が使われているわけではありませんが、

それはともかく、

カントは、

この超越論的観念論において、

2つの相反する主張は、
論理的に同等に正しく

両者の主張は両立する

として、
両者の主張の調停を行ったのです。

超越論的には観念論、経験的には実在論
哲学的論理の世界と、現実の経験の世界

それでは、

具体的に、
どのような意味で、
それぞれの主張が論理的に正しいと調停したのか?

ということですが、

一言で言うと、

超越論的には観念論が

経験的には実在論が

正しい

として調停したということになります。

先ほど述べたように、

カントやドイツ観念論の文脈では、
超越論」という概念は、

「先験的」=経験に先立つ

という意味で使われていて、

この場合の「先立つ」というのは、

時間的に先行する」という意味ではなく、

認識のカテゴリー・形式として、
経験・認識の拠となり、

前提となっている」という意味で使われています。

したがって、、

超越論的には観念論が正しく、
経験的には実在論が正しい、

というのは、

現実の経験の世界では、
事物が先に実在していて、

その事物を、人間が、
知覚や感覚を通じて認識することで、

その人の頭の中に
その事物の観念が生まれる、

という認識が正しいが、

経験の世界を超越し、
経験や認識の前提となっている、

認識のカテゴリー・形式の世界では、

自我意識、そして、その働きである
観念の存在の方が根拠として先立っている、

ということになります。

つまり、

人間が実際に生きて生活している
現実の世界の内では、

事物の実在の方が先立っているのですが、

そうした現実の経験自体を成り立たせていて、
その根底にある、

経験に根拠として先立った、
哲学的論理の世界では、

自我・意識の存在や、
観念の存在の方が先立つ

と結論づけたということです。

・・・

このように、カントは、

相反する2つの
同等に論理的に正しい主張について、

それぞれの論理的主張が
正しく機能する範囲を画定する、

言わば、
論理の住み分けを行うことにより、

メタ論理的に、概念の整理と、
両者の主張の正しい位置付けを行う

超越の道」によって、

両者の論理を俯瞰する
超越した次元から、

調停を行ったと考えられるのです。

・・・
このシリーズの次回記事:
真理へ至るための3つの道⑦ヘーゲル弁証法における正反合の論理の自己展開

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ