真理へ至るための3つの道①肯定の道とアナクシマンドロス

哲学的真理に至るために論理的思考がたどる道筋は、

次の3つの道が考えられます。

それは、

肯定の道と、否定の道、そして、超越の道です。

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真理が何であるかという問いへの、端的な答え

真理探究のための論理的方向性としての
肯定の道は、

シンプルかつ直接的に、
真理が何であるかを明らかにする道で、

はじめに、真理は○○である
言い切ってしまい、

その後で、理由や論拠をくっつけて、
説得力を増していくことで、真理を説明しようとする道です。

そして、それは、

意識とは何であり無意識とは何であり、自我とは何であり、
とは何であり、とは何であり、とは何であり、

世界の始まりと終わりとは何かであり、
それはどのような意味での始まりと終わりであり、

生命とは何であり、とは何であり、
それはどのような意味での終わり、ないし、変化であるのか?

死後の世界、ないし、死後の生はあるのか、ないのか?
それがあるのとすればどのような意味であるのか?

といったすべての根源的な問いへの
端的な答えを与えてくれる道でもあります。

初めに言葉があった。言葉は神であった。万物は言葉によって成った。

真理探究の方向性としての
肯定の道をたどる思考が、簡潔に現れている例は、

例えば、
キリスト教の聖書の中にも見ることができます。

キリスト教の聖書の
ヨハネによる福音書冒頭部は次のような言葉ではじまります。

初めに言葉があった
言葉は神と共にあった。
言葉は神であった。…

万物は言葉によって成った
成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。…

(ヨハネによる福音書1章)

ここで書かれている「言葉」という単語は、
古典ギリシア語の原文では、

ロゴス(logos、論理理性

という単語が使われているので、

厳密には、
言葉論理理性と併記するか、

ロゴスというギリシア語をそのまま使う方が
意味としては、より正確ですが、

いずれにせよ、この文では、

①原初の存在は言葉論理・理性である

②神は言葉論理・理性である

③世界のすべての存在は、言葉論理・理性である神によって創られた

という3つの命題が、
端的な真理として、

真理探究の方向性としての
肯定の道の形式で語られていることになります。

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タレスとアナクシマンドロス

哲学者の例で言うと、

古代ギリシア初期の哲学者たちは、
その思考の経路として、

シンプルな肯定の道を歩んでいるケースが多いように思います。

例えば、

アリストテレスによって、
哲学の創始者、最初の哲学者とされている

タレス(紀元前6世紀頃の古代ギリシアの哲学者)は、

「万物の始原アルケー、元となる存在)水である。」

と考えました。

つまり、

世界のすべての存在は、水から生成して、再び水へと還る。
ということです。

また、

タレスの弟子であり、その後継者とされる
アナクシマンドロス(同じく紀元前6世紀頃の古代ギリシアの哲学者)は、

万物の始原は、無限定なるものト・アペイロン、無限、無規定)である。

と考えました。

彼は、万物の始原は、空気といった
具体的な事物ではなく、

そうした、目に見える具体的な事物の背後にあって、
土・水・火・空気といった規定された事物を創り出した、

それ自体は、
無規定で無限な本性をもった存在こそが始原である、

と考えたわけです。

・・・

このように、

真理探究のための論理的思考の方向性としての
肯定の道とは、

真理が何であり
それにはどのような属性や特徴があるのか、

ということを具体的に示していくことで、

真理が何であるかを直接的に明らかにするです。

それゆえに、それは、

シンプル、かつストレート、
単純明快わかりやすい道ではあるのですが、

その道が、直接的で明快であるがゆえに、

かえって、

求めようとする哲学的真理に行き着きにくくなってしまう
ところもあるように思います。

そもそも、
私たちが真理を求めようとするときに発する、

魂とは何か? 神とは何か? 世界とは何か?そして、
生と死とは?

といった根源的な問いは、

机の上にあるリンゴ

のように、
直接的・具体的に指し示して答えることができる問いではありません。

それは、

アナクシマンドロス
ト・アペイロン無限定なるもの)ではありませんが、

言わば、

茫漠とした無辺の世界と、

心の内の深淵とを前にして、

そこにたった一人で向かい合い続けるような行為です。

したがって、

その茫漠とした深淵なる問いかけに対して、

いきなりストレートに単純明快な答えを出そうとするのは、
土台無理というものですし、

根源的な問いも、それが求める真理も、

直接的・具体的に指し示せるほどには、
単純でも明快でもない以上、

それは、論理的思考により、
様々な方向から吟味されることによって、

徐々にその姿を明らかにしていく必要があります。

そこで、

真理に至るために論理的思考がたどる道筋として、

肯定の道とは
別方向からの真理探究の道が求められることになります。

・・・

このシリーズの次回記事:
真理へ至るための3つの道②否定の道と般若心経とパルメニデス

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