『パイドン』の想起説におけるイデアの実在性の論証①、「等しさ」という観念をめぐる想起の議論、プラトンの想起説④

前回書いたように、プラトンの中期対話篇であるパイドンにおいては、

現実の世界における何らかの経験をきっかけとしてもたらされる連想を通じて、以前には知っていたが、今はすでに忘れてしまっていた知識を改めて思い出すという知のあり方が、想起(アナムネーシス)と呼ばれる知のあり方であると定義づけられることになります。

そして、『パイドン』におけるその後の想起説の議論においては、

こうした想起と呼ばれる知のあり方は、その連想の系列をたどっていくことによって、最終的にイデアについての知識へとたどり着くということが示されていくことになります。

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「等しさ」という観念をめぐる想起についての議論

『パイドン』における想起説の議論において、物語の登場人物としてのソクラテスは、まず、想起と呼ばれる知のあり方の定義について十分に吟味したうえで、

次に、等しさという観念を例として取り上げることによって、そうした想起と呼ばれる知の働きにおける一連の連想が行き着く先にある観念のあり方について問うていくことになります。

そして、こうした「等しさ」という観念をめぐる想起の議論においてソクラテスは、

人は現実の世界における様々な経験のなかで、ある石が別の石と同じ形をしているとか、ある木材の形がもう一方の木材に等しいというように、「等しさ」という観念を想起させる様々な認識を得ていると考えられるが、

そうした様々な等しい事物から想起される等しさそのものの観念自体についてはいかなる現実の経験の内にも直接見いだすことはできないとしたうえで、以下のように語ることになります。

見たり、聞いたり、他の感覚を働かせはじめたりする以前に、われわれは等しさそのものが何であかるかということについての知識をすでにどこかで得てしまっていたのでなければならない。…

われわれは感覚を用いる以前(等しさそのものについての)知識を得ていたのでなければならないのである。

(プラトン『パイドン』75B~C)

つまり、

「等しさそのもの」といった普遍的な概念については、それが現実の世界における個別的な経験のみから導き出すことができないものである以上、そこには、現実の世界における経験を超えた何らかの知の存在が関わっているとしか考えることができず、

そうした現実の世界における感覚的経験が生じる以前に存在した何らかの知識が経験をきっかけとして想起されることによって、等しさという観念についての認識が生じていると考えられるということです。

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以上のように、『パイドン』における想起説の議論においては、「等しさ」という観念が例として取り上げられることによって、

そうした観念の想起がもたらされる連想の系列をたどっていくと、それは最終的には、感覚的な経験だけからは導き出すことができない等しさそのものといった普遍的な観念自体へと行き着くことになると考えられることになります。

そして、プラトンのイデア論においては、こうした「等しさそのもの」といった普遍的な観念のあり方こそが、

現実の世界におけるあらゆる事物の原型として存在する真なる実在のことを意味するイデアideaと呼ばれる観念のあり方そのもののことを意味することになるのですが、

『パイドン』の想起説の議論においては、今回、例として挙げられていた「等しさそのもの」といった論理的な観念だけではなく、

「正義」といった道徳的な観念や、「美そのもの」といった美的な観念についても、今回取り上げた想起説における議論と同様の議論が適用されることによって、

さらに明確な形でイデアの実在性の論証が進められていくことになるのです。

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次回記事:『パイドン』の想起説におけるイデアの実在性の論証②、生得観念としてのイデアと「美そのもの」の観念、プラトンの想起説⑤

前回記事:プラトンの中期対話篇『パイドン』における想起(アナムネーシス)の概念の定義、プラトンの想起説③

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