理性とは何か?⑦古代ギリシア哲学からカントの認識論哲学へと至る哲学史における理性の概念の定義の変遷のあり方のまとめ
このシリーズの初回から前回までの一連の記事で書いてきたように、
理性と呼ばれる人間の心における知的な働きのあり方のことを意味する概念は、
古代ギリシア哲学からカントに代表される近代哲学へと至るまでの哲学史の流れのなかにおいて、
その概念自体がもつ具体的な意味内容やそのほかの互いに意味の似通った概念との間の相対的な位置づけのあり方が大きく変わっていった概念であると考えられることになります。
そこで、今回の記事では、
これまでに書いてきたこうした哲学史における理性の概念の捉え方の変遷のあり方について、改めてまとめ上げていく形で考察していきたいと思います。
ギリシア語とヘラクレイトスの哲学におけるロゴスとしての理性の定義
まず、このシリーズの初回の記事でも取り上げたように、
理性と呼ばれる概念は、もともと、
ギリシア語において「拾い集める」「取り集める」といった意味を持つlegein(レゲイン)という動詞から派生してできたロゴス(logos)という言葉に由来する概念であると考えられ、
それは、言葉自体の大本の意味としては、
バラバラに散らばっている物事を一つに取りまとめていくことによって、認識や世界のうちに秩序と統一をもたらしていく力や働きのあり方のことを意味する概念として捉えることができると考えられることになります。
そして、詳しくはこのシリーズの第二回の記事で書いたように、
哲学史において、はじめて明確な形で、こうしたロゴスとしての理性の存在のあり方を哲学的探究における重要な原理として位置づけたと考えられる
紀元前6世紀の古代ギリシアの哲学者であるヘラクレイトスの哲学思想においては、
こうしたロゴスとしての理性の存在のあり方は、
すべての人間に共通する論理的で普遍的な思考のあり方のことを意味する概念であると同時に、それは、この世界の内に秩序をもたらし、すべての存在を一つに統一していく実体的な力を持った世界自体の存在の根源にある究極的な原理としても捉えられていくことになるのです。
ソクラテスとプラトンとアリストテレスの三人のアテナイの哲学者における理性の定義のあり方の変遷
そして、このシリーズの第三回の記事で取り上げたように、
その後、
紀元前5世紀の古代ギリシアのアテナイの哲学者であるソクラテスにおいては、
こうしたロゴスとしての理性の働きのあり方は、
ソクラテスの問答法と呼ばれる議論において見いだされるような人間同士の問答や論駁の議論における言葉や論理あるいは原則や法則といったものとして捉えられたうえで、
それは、普遍的な定義からの論理的思考の展開によって個別的な事例についての判断を導き出す演繹的推論のことを意味する概念として捉えられていくことになります。
そして、
第四回の記事で書いたように、
ソクラテスの弟子であるプラトンにおいては、そうした人間の心における理性と呼ばれる知的な心の働きのあり方は、
数学や自然学といった通常の学問における論理的推論に基づく認識のあり方のことを意味するディアノイア(間接的認識)と、
真の実在であるイデアそのものの本質を直観的に把握する認識のあり方であるノエーシス(直知的認識)と呼ばれる二つの認識のあり方へと区分されていく形で捉え直されていくことになります。
そして、それに対して、
第五回の記事で考察したように、
プラトンの弟子であるアリストテレスの哲学体系においては、
人間の認識における理性の働きのあり方は、三段論法と呼ばれる推論形式に代表されるような前提からの必然的な論理展開によって結論を導き出す演繹的推論を中心とする論理的な思考の働きのあり方として位置づけられていくことになるのですが、
それに対して、
プラトンの哲学思想において示されていた対象そのものの本質を直観的に把握していく直知的認識や知的直観と呼ばれるような知的な認識作用のあり方は、
神の認識へも通じる認識作用のあり方としてヌース(nous)と呼ばれる知性の働きの内に位置づけられていくことによって、
演繹的推論を中心とする論理的な思考の働きのあり方のことを意味する人間の心における理性の働きのあり方からは区別されていくことになります。
つまり、そういった意味では、
アリストテレスの哲学体系においては、
神の認識へと通じる知的直観を含む認識のあり方を含む知性(ヌース)の働きのあり方が、演繹的推論を中心とする論理的な思考のあり方のことを意味する理性(ロゴス)の働きから区別されることによって、
人間の心における知的な認識のあり方において、知性(ヌース)の存在の下に理性(ロゴス)の存在が位置づけられるという序列関係が生じていくようになっていったと考えられることになるのです。
カントの認識論哲学と現代の哲学や心理学の分野における理性の定義
そして、
こうしたアリストテレス哲学における理性の定義のあり方は、その後の中世ヨーロッパのスコラ哲学における認識論の議論などにおいても基本的にはそのままの形で引き継がれていくことになるのですが、
詳しくはこのシリーズの第六回の記事で考察したように、
18世紀のドイツの哲学者であるカントの認識論哲学においては、こうしたアリストテレス哲学に基づく認識論の議論において認められていた知的直観と呼ばれるような認識のあり方は、
人間の意識における認識作用の内では実現することがあり得ない非現実的で空虚な認識のあり方として全面的に否定されていくことになります。
そして、
人間の意識における認識のあり方は、
感性における直観と、悟性における総合、そして、理性における統一という三つの心の働きのあり方における三段階の認識作用によって形成されていくことになると説明されていくことによって、
最終的に、
そうした人間の意識における三段階の認識作用の頂点に位置する理性と呼ばれる認識作用の働きのあり方は、感性や悟性において把握された多様な表象のあり方を論理的な推論能力によって一つの認識のあり方へと統一していくという
人間の意識における最上位の認識能力のあり方を意味する概念として捉え直されていくことになると考えられることになるのです。
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以上のように、
理性と呼ばれる概念は、
古代ギリシア哲学におけるヘラクレイトスの哲学思想におけるロゴスとしての理性の存在にはじまり、
ソクラテスとプラトンとアリストテレス、そして中世のスコラ哲学を経てカントの認識論哲学における理性の定義へと至るまで、
その具体的な定義のあり方が大きく変遷していったと捉えることができると考えられることになります。
そして、
現代の哲学や心理学の分野においては、
前述したアリストテレスの哲学における三段論法に代表されるような前提からの必然的な論理展開によって結論を導き出す演繹的推論を中心とする論理的な思考の働きのあり方のことを意味する概念としての理性の定義のあり方を踏まえたうえで、
一義的には、
カントの認識論哲学における人間の意識の内にある多様な表象を論理的な推論能力によって一つの認識のあり方へと統一していくという人間の意識における最上位の認識能力のあり方を意味する概念として、
こうした理性という言葉が用いられていると考えられることになるのです。
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次回記事:知性とは何か?①ギリシア語とラテン語におけるヌースとインテレクトゥスの具体的な意味
前回記事:理性とは何か?⑥カントの認識論哲学における人間の意識における最上位の認識能力としての理性の存在の位置づけ
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