パルメニデスの「あらぬの道」と論理形式の「否定の道」の関係

以前、「真理へ至るための3つの道」のシリーズで、
哲学的真理へ至るために論理的思考がたどる道筋は、

肯定の道」と「否定の道」、そして、
両者の論理を上位の次元から調停する「超越の道

という3つの論理形式に分類できると書きましたが、

否定の道」をそのまま言い換えると、
あらぬ道」とも言えるように思えるので、

哲学的探究における論理的思考の形式としての
否定の道」は、

パルメニデス偽りの道として禁止した
あらぬの道」の歩みになってしまうのではないか?

という疑問が生じることになります。

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否定的述定としての「否定の道」と、非存在としての「あらぬの道」

哲学的探究における論理的思考の形式としての
否定の道」とは、

真理について、
それは~ではない、~でもないと

否定的定義否定的述定を積み重ねていき、

真理ではないものを次々に取り去っていくことで、
真理の姿を浮き彫りにするように徐々に浮かび上がらせていく
論理的思考の道筋です。

これに対して、

「ある」とは何か?存在と非存在、肯定的述定と否定的述定
で考察したように、

パルメニデスにおける「あらぬの道」における「あらぬ」とは、

否定的述定ではなく、非存在のことを意味していて、

パルメニデスの哲学においては、

存在としてのあるの道」のみが、
真理へ至るための哲学的探究が歩むべき唯一の道として認められ、

非存在としてのあらぬの道」は、
探究不可能な偽りの道として禁じられている

ということになります。

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パルメニデスの「あらぬの道」と論理形式の「否定の道」の関係

しかし、

このことは、一方で、

非存在ではない方の「あらぬの道」

すなわち、

否定的述定としての「あらぬの道」は、
探究不可能な偽りの道として禁止されることから逃れていて、

この道の方は、探究可能な道として確保されている

ということも意味します。

現に、パルメニデス自身が、真理の道である「あるの道」のなかで、

あるものto eonト・エオン)」とは、

生にして滅」
「揺るぐことのない、終わりなきもの」
「かつてあったこともなく、いずれあるであろうこともない

などと、

あるもの」についての否定的述定を数多く語っているように、

むしろ、

否定的述定としてのあらぬの道」は、

真理の道である
存在としてのあるの道」の内に含まれている

と考えられるということです。

以上の考察に基づいて、

パルメニデスにおける「あるの道」、すなわち、
存在としてのあるの道」と、
否定的述定としての「あらぬの道」である
論理形式としての否定の道」との関係を含めた、

哲学的探究において論理的思考がたどる道筋の相互関係について
図示すると、以下のようになります。

パルメニデスの「あるの道」と「あらぬの道」と、真理へ至るための「肯定の道」と「否定の道」の関係

上記の図で示した通り、

パルメニデスにおける「あるの道」である
存在としてのあるの道」の内には、

肯定的述定としての「あるの道」、すなわち、
哲学的探究における論理形式としての肯定の道」だけではなく、

否定的述定としての「あらぬの道」、すなわち、
哲学的探究における論理形式としての否定の道」も
含まれていることになります。

以上のように、

非存在としての「あらぬの道」が
偽りの道として切り捨てられる一方で、

真理は「~ではない」、「~でもない」と、
否定的述定否定的定義を積み重ねていくことによって、
真理の姿を浮き彫りにするように浮かび上がらせていく

哲学的探究における論理形式としての
真理へ至るための否定の道」は、

パルメニデスの哲学においても、
探究可能な真理の道の内に含まれていて、

その哲学的探究において、
重要な位置を占めていると考えられるのです。

・・・

関連記事:「真理へ至るための3つの道②否定の道と般若心経とパルメニデス

パルメニデス」のカテゴリーへ

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