「ある」とは何か?①存在と非存在、肯定的述定と否定的述定
「パルメニデスの哲学の概要」で書いたように、
パルメニデスは、
「真理の道」を語る叙事詩のなかで、
「ある」の道が真理の道であり、
それと反対の道である
「あらぬ」の道は探究が不可能な偽りの道である
としていますが、
ここで語られている「ある」と「あらぬ」とは、
具体的にどのようなことを意味しているのでしょうか?
存在「~がある」と述定「~である」の違い
ギリシャ語の
「ある」(esti、エスティ)
という動詞には、
英語で言うbe動詞と同様に、
「~がある」という存在を表す意味と、
「~である」という述定(主語に性質や状態などの属性を述語付けること)
を表す意味の二つの意味があります。
例えば、
「テーブルの上にリンゴがある(There is an apple on the table.)」
という表現では、
テーブルの上にリンゴが存在する
という
存在の意味で
「ある」は使われていることになりますが、
一方、
「リンゴは赤い(The apple is red.)」、「リンゴは果物だ(An apple is a fruit.)」
すなわち、
「リンゴは赤である」、「リンゴは果物である」
といった表現では、
リンゴは赤いという性質を持っているとか、
リンゴは果物という種類に属するというような
述定(より正確に言うならば、肯定的述定)の意味で
「ある」は使われていることになります。
そして、「ある」と同様に、
「あらぬ」についても、
「~がない」という非存在を表す意味と、
「~ではない」という否定的述定を表す意味の
二つの意味があると考えられます。
「あるもの」における否定的述定
それでは、
パルメニデスの哲学において、
「ある」と「あらぬ」という言葉は、
存在と述定のどちらの意味で使われているのでしょうか?
その判断の手がかりとなる記述が、
パルメニデスの叙事詩の「真理の道」における、
「ある」の名詞形である
「あるもの」(to eon、ト・エオン)についての説明の中にあります。
真理の道において、「あるもの(ト・エオン)」は、
「不生にして不滅」
「揺るぐことのない、終わりなきもの」
「かつてあったこともなく、いずれあるであろうこともない」
などと説明されていますが、
このように、
パルメニデスの真理の道においては、「あるもの」に関する
否定的述定が数多く並べられていることがわかります。
そして、
はじめに書いたように、
パルメニデスは、
「あらぬの道」は探究不可能な偽りの道であるとして
その道を歩むことを禁止していますが、
その「あらぬ」意味が否定的述定の意味であるとすると、
真理の道である「あるの道」のなかでも、
「あるもの」についての否定的述定が語られているので、
「あるの道」のなかで「あらぬの道」が語られるという
矛盾が生じてしまうことになります。
つまり、
パルメニデスにおいて、「あらぬの道」の「あらぬ」が、
「~ではない」という否定的述定の意味で使われているとすると、
正しい道である真理の道の探求のなかで、
偽りの道とされていたはずの「あらぬの道」への歩みが始まってしまうという
重大な矛盾が生じてしまうということになるのです。
したがって、
パルメニデスの叙事詩の内容を、矛盾が生じないように
整合的に解釈するためには、
必然的に、
「あらぬの道」の「あらぬ」は、
否定的述定ではなく、非存在の意味で用いられている
ということになり、
それと同様に、
「あるの道」の方の「ある」も、
肯定的述定ではなく、存在の意味で用いられている
ということになるのです。
つまり、
パルメニデスの「ある」そして、「あるもの」は、
「存在」、そして、「存在そのもの」
という意味でしかあり得ないということであり、
したがって、
パルメニデスの哲学において
「あるの道」と「あらぬの道」を漢字で表記するならば、
「在るの道」と「在らぬの道」に、
「あるもの」(ト・エオン)を漢字で表記するならば、
それは、
「或るもの」ではなく、
「在るもの」ということになるでしょう。
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