「あるの道」が真理の道、「あらぬの道」が偽りの道である理由とは?

前回の考察では、

パルメニデスの「あるの道」と「あらぬの道」における
「ある」と「あらぬ」という概念は、

それぞれ、「存在」と「非存在」という意味で用いられている
ことを明らかにしましたが、

あるの道」と「あらぬの道」は、より正確には、
パルメニデスの六脚韻の叙事詩の中の「真理の道」において、

女神の口を借りる形で、
以下のように語られています。

いざや、私は汝に告げよう。
汝この言葉を聴いて、よく心に留めよ。

まことに探究の道として考えられ得るは、
ただこれらの道のみ。

一つは、すなわち、
ある」そして「あらぬはあらぬ」という道。

これは、説得の女神の道である。
それは、真理の女神に随うがゆえに。

また一つは、すなわち、
あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道。

この道はまったくたずねえざる道である。

なぜならば、あらぬということを、
汝は知ることもできないであろうし、語ることもできないであろうから。

(パルメニデス・断片2)

このように、

女神の語りによると、

説得の女神の道、真理の道である「あるの道は、
あらぬはあらぬ」という道でもあり、

もう一方の

知ることも語ることも不可能な偽りの道である「あらぬの道は、
あらぬことが必然」という道でもある

と語られています。

つまり、

「ある」の道とは、より正確に言うと、
あるものがある」(=存在する)という道なので、

それを、「あるもの」の反対である「あらぬもの」を主語にして
言い換えると、
あらぬものはあらぬ」、すなわち、「あらぬはあらぬ」ということになり、

それと同様に、

「あらぬ」の道も、より正確に言うと、
あるものがあらぬ」(=存在しない)という道なので、

それを、逆向きにして言い換えると、
あらぬものがある」、すなわち、「あらぬことが(あることが)必然

という表現になるということです。

この「あらぬはあらぬ」と「あらぬことが必然」という表現は、
少し込み入った表現になっていて、
一読しただけでは言葉の意味自体もわかりにくく、

何のためにこのようなまどろっこしい表現をわざわざ入れたのか?
というパルメニデス自身の意図もわかりづらいので、

これらの表現が、
それぞれ具体的にどのようなことを意味しているのか?

ということについて、考えてみたいと思います。

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「あらぬはあらぬ」と論理的整合性

まず、

あらぬはあらぬ」とは、
具体的にどのようなことを意味しているのか?

ということですが、

あらぬはあらぬ」の前半の「あらぬ」という言葉は、

「あらぬの道」における「あらぬ」の概念と
同じ意味で用いられていると考えられるので、

前半のあらぬ」は、「非存在」という意味で語られている
と考えられます。

そして、

後半の「あらぬ」の方はどのような意味で
用いられているのか?

ということですが、

そのまま、前半の「あらぬ」と同様に
非存在」という意味で用いられていると考えると、

全体として「あらぬはあらぬ」は、

非存在は非存在」、「無は無」

といった同語反復の意味で語られていると
解釈することができます。

また、

次に考察する
「あらぬは必然」との対称性を考えて解釈すると、

非存在が在ることは不可能

といった意味として解釈することもできると考えられます。

そして、

どちらの解釈をとるとしても、

「あるの道」の言い換えである
あらぬはあらぬ」という表現には、矛盾がなく、
論理的整合性を満たす表現となっているので、

あらぬはあらぬ」という道と、その元の表現である「あるの道」は、
哲学的探究が歩むべき真理の道であると認められることになるのです。

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「あらぬことが必然」と背理法による証明

次に、

あらぬことが必然」の方は、
どうのようなことを意味しているのか?

ということですが、

ここでも同様に、
文頭のあらぬ」という言葉は、「非存在」の意味で語られている
と考えられるので、

「あらぬことが必然」とは、すなわち、

「非存在が在ることが必然」、「非存在が必然的に在る

ということを意味していることになります。

しかし、

「非存在」とは、存在しないという意味の概念なのに、

その「非存在」が「必然的に存在する
というのは、

存在しないはずものが同時に存在してもいる

という

大きな矛盾を抱えた表現になってしまいます。

そのため、

あらぬことが必然」という道と、その元の表現である「あらぬの道」は、
探究が不可能な偽りの道として排除されることになるわけですが、

パルメニデスは、このように、

あらぬの道」という概念から、

あえて、

非存在が必然的に存在する

という

明確に矛盾した表現を導出するという、

背理法(ある命題と正反対の命題が真であると仮定して、そこから矛盾を導くことにより、元の命題が真であることを証明する論法)によって、

あるの道」の正しさ、その真理性を証明している
と考えられるのです。

・・・

以上のように、

パルメニデスの哲学において、

ある」そして「あらぬはあらぬ」という道は、

存在」そして「非存在が在ることは不可能

という論理的整合性を満たす概念であるがゆえに、
哲学的探究が歩むべき真理の道とされ、

その反対の道である

あらぬ」そして「あらぬことが必然」という道は、

非存在」そして「非存在が必然的に存在する

という論理矛盾に陥ってしまう概念であるがゆえに、
それは探究が不可能な偽りの道であるとされることになるのです。

・・・

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