「ある」とは何か?②「述定」が先か、「存在」が先か?
「「ある」とは何か?①存在と非存在、肯定的述定と否定的述定」では、
パルメニデスにおいて、哲学的探究が歩むべき真理の道である
「あるの道」の「ある」という概念は、
「~である」という述定(主語に属性を述語づけること)の意味ではなく、
「~がある」という存在の意味で用いられている
ということを明らかにしましたが、
今回は、この
「ある」(esti、エスティ)という概念の根源的な意味について、
さらに突き詰めて考えていきたいと思います。
「述定」が先か、「存在」が先か?
「ある」という概念の根源的な意味の問題は、
「述定」と「存在」のどちらが
「ある」の根源的な意味となっているのか?
すなわち、
「述定」の概念が「存在」の概念を基礎づけているのか?それとも反対に、
「存在」の概念が「述定」の概念を基礎づけているのか?
という問題として捉えることができます。
例えば、
「東京タワーは高い(Tokyo Tower is tall.)」
という表現では、
前半の「東京タワー(Tokyo Tower)」という
個物の存在の概念の方は、
述語づけがなくても単独の表現として意味を持ちますが、
後半の「~は高い(is tall)」という
述語概念の方は、
何らかの主語の存在を前提としなくては、
単独の表現としては意味を持たないと考えられます。
より正確に言うならば、
主語概念と述語概念を結びつけるイコールの役割をしている
“is”を両方の概念に割り振ったとき、
前半の“Tokyo Tower is.”という主語の存在を表す表現の方は、
少し違和感がある表現であるにしても、(本来ならば、There is Tokyo Tower in Tokyo.といった表現が教科書的な例文になると考えられます。)
「東京タワーがある(Tokyo Tower is.)」という
文法上一応は正しい表現、完結した意味を成す表現として
成立しているのに対して、
後半の“is tall.”という述定を表す表現の方は、
「~は高い(is tall)」ということ以上には解釈のしようがなく、
それだけでは、完結した意味を成す表現として
成立していないということです。
このように、
述定、すなわち、述語づけが成立するためには、
それに先立って、
主語となるものが存在していることが必要である
と考えられます。
例えば、
「大きい」「高い」「速い」「固い」「若い」といった
述語概念を、述語づけられるものの存在抜きに単独で用いた
何ものでもない
ただ大きいだけ、ただ高いだけ、ただ速いだけ、ただ固いだけ、ただ若いだけ
といったものは、現実にはあり得ないし、
頭の中で想像することもできない
というように、
何ものでもないもの、何の存在でもないものについては、
いかなる述語づけも不可能であり、
述定の概念は、述語づけられる何らかの存在の概念を前提として
はじめて、成立する
ということです。
つまり、
「存在」の概念の方が、「述定」の概念より、
概念の成立順序として先立っていて、
そういう意味において、
「存在」(~がある)は、「述定」(~である)に先立ち、
「述定」の概念は、「存在」の概念によって基礎づけられている
ということになるのです。
アリストテレスの「カテゴリー論」における存在・述定・実体の概念
こうした「存在」と「述定」の概念の関係性についての議論は、
のちに、アリストテレスの「カテゴリー論」へと引き継がれ、
アリストテレスにおいては、
述語づけの種類として、
実体(ousia、ウーシア、あらゆる変化の根底にあって持続的・自己同一的なものであり続けるもの)、
量、性質、関係、場所、時、位置、状態、作用(能動)、被作用(受動)
という
十個のカテゴリー(kategoria、カテゴリア、範疇、あらゆる存在がその概念のもとに包括される最上位の概念(最高類概念))
が列挙されたうえで、
真に存在するものとしての「実体」は、
基体(hypokeimenon、ヒュポケイメノン、述語づけの基盤となるもの)として、
他のあらゆるカテゴリーによって述語づけられ得るが、
自らが他の何かの述語となることはないものとして、
すべての論証と言語表現の基盤となるものとされることになります。
しかし、ここで、
先の十個のカテゴリーの列挙においては、
述語の種類として「実体」の概念が挙げられていたのに、
基体の議論においては、同じ「実体」の概念が、今度は、
述語にはなりえないものとして挙げられているという矛盾が生じてしまうので、
さかのぼって、先の述語づけの種類の内に含まれていた「実体」の概念は、
「類」や「種」の概念としての第二実体であるとされ、
それに対して、
他のカテゴリーによって述語づけられ得るが、自らは他の何ものの述語となることもない、真に存在するものとしての「実体」とは、
「東京タワー」や「パルメニデス」といった固有名詞に代表されるような
「個物」の存在の概念である第一実体であるとされことになります。
そして、そこからさらに、
存在と述定、そして、
真に存在するものとしての第一実体についての
錯綜した議論が展開されていくことになるのですが、
いずれにせよ、
アリストテレスにおいても、
真に存在するもの、存在そのものは、
あらゆる述定、あらゆるカテゴリーに先立ち、
それらが成立する基盤となる根源的な概念
として捉えられているということになるわけです。
・・・
以上のように、
冒頭の「ある」の根源的な意味の問いについての答えとしては、
「存在」の方が、「述定」よりも根源的な概念であり、
「述定」の概念は、「存在」の概念を前提とすることによってのみ
成立すると言えるので、
「述定」ではなく、
「存在」こそが「ある」の根源的な意味である
ということになります。
そして、さらに言うならば、
実体、真に存在するもの、存在そのものとは、
言わば、
一つの最も根源的なカテゴリーであり、
あらゆる述定も、言語表現も、
この世界の事物も、頭の中の概念も、
そのすべてが、
唯一の根源的なカテゴリーである「存在」を基盤として、
それを前提とすることによってのみ成り立っている
ということになるのです。
・・・
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