真理へ至るための3つの道⑨哲学的探究における3つの道の循環

このシリーズでは、
論理的思考による真理の探究の方法論として、

哲学的真理に至るための探求は、

どのような論理的思考の道筋のもとで
可能となるのか?

ということについて、

それぞれの哲学者
個々の思考の道筋を例に挙げながら考えてきました。

そして、

哲学は、
肯定の道①」、「否定の道②」、そして「超越の道⑤」という、
3つの論理形式を武器に、

真理の探究を進めていくということを明らかにし、

それぞれの論理形式がどのように働くのかという、
論理展開の仕組みと、

その論理形式にしたがった、
哲学的思考の具体的な展開について考えてきたわけですが、

最後に、

この3つの論理的思考の道筋は、

互いにどのように関わることによって、
真理を明らかにしていくのかという

この3つの道の関係性について考えていきましょう。

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肯定の道から否定の道、そして超越の道へ

哲学的探究における論理的思考の旅は、

まずは、

とは何か?とは何か?
世界に始まりと終わりはあるのか?

といった、
存在の根拠に対する根源的な問いである、
哲学的な問いに対して、

真理は○○である

端的に答えようとする、

最も直接的シンプルな道である、

肯定の道」からはじまります。

しかし、

存在の根拠に対する、
根源的な問いは、

無辺の世界
心の内の深淵へと投げかけられた、

それ自体が
茫漠とした深淵なる問いかけである以上、

その問いに、すぐに、
直接的明快な答えを出すことは難しい、
ということに気づきます。

そして、

直接、正面から当たっても、
真理の扉を開くのが難しいと分かった以上、

今度は、裏から回って、

逆に、真理ではないものを次々に明らかにしていく、

消去法背理法方法的懐疑によって、

真理の姿を、徐々に
浮き彫りのように浮かび上がらせていく、

否定の道」を進むようになります。

しかし、

肯定の道」と「否定の道」という、
通常の論理の両面作戦によって、攻めて行っても、

ときには、

それぞれ、別方向から攻めていたはずの、
肯定の道否定の道の軍勢が、

互いに交錯して、衝突事故を起こしてしまい、どちらへも進めなくなる
こう着状態に陥ってしまう局面が現れることがあるので、

その場合は、いったん、

第三の論理的思考の道筋である、
超越の道」へと歩みを進め、

一度、両者の論理の外側に立ち、

両者の立場を俯瞰する
超越した次元から、

2つの相反する論理的思考の調停と、
概念の整理正しい位置付けを行ってから、

再び、肯定と否定の元の探求の道へと戻ることになります。

しかし、ときに、

この「超越の道」は、

再び、通常の論理的思考の次元へ
戻ってくることを拒否し、

ヘーゲルの弁証法における、
動的に自己展開していく論理のように、

論理の衝突という矛盾を内包したまま、
その矛盾自体を契機として、

らせん階段を駆け上がるように、
一人だけで、どんどん
高次の次元へと突き進んで行ってしまうこともあります。

このように、

ときには、どこか彼方へと突き進んで行ってしまったきり、
元の次元には、いっこうに戻ってこない思考もありますが、

論理的思考による、
哲学的真理の探究の旅は、

通常の、論理的思考の歩みとしては、

肯定の道」、「否定の道」、そして「超越の道」という
3つの道の間を、

互いに行きつ戻りつしながら、
一歩一歩、少しずつではありますが、

様々な方向から、立体的に、

真理の姿を明らかにしていくことになるのです。

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肯定の道への回帰と3つの道の循環

このように、

実際の哲学的探究においては、、

「肯定の道」、「否定の道」、「超越の道」
という3つの論理的思考の道は、

それぞれの道が独立して、単独で探究を進めていくのではなく、

3つの道、3つの論理形式
互いに折り重なり合い交錯し合いながら進み、

3つの道を
行きつ戻りつしながら、

探究の歩みを前へと進めていくことになるのですが、

このとき、

3つの道の間の相互の移動で、
最も重要な移動の道筋となるのは、

「否定の道」もしくは「超越の道」から、
肯定の道へと戻る道筋になると思われます。

なぜならば、

最初に掲げられた、

魂とは何か?神とは何か?
世界の始まりと終わりとは?という、

根源的な哲学の問い
適切に答えるためには、

否定の道」と「超越の道」を通じて得られた
哲学的探究の成果は、

再び肯定の道」によって
語り直される必要があるからです。

例えば、

リンゴが何であるか?

ということを説明するのに、

それはオレンジではない、メロンでもない、
イチゴでもない、ブドウでもない…

と、いくら否定の定義を重ねても、

それだけでは、どこまで行っても、
リンゴ自体の定義到達することはありません。

真理についても、同様で、

否定の道」によって、
どれほど多くの、真理でないものの姿が明らかになっても、

それだけでは、真理そのものの姿は、
少しも明らかになってはおらず、

どこまで行っても、
それで、結局、真理って何なの?」と問い返されてしまうので、

真理とは○○でも、○○でも、○○でもない、

ゆえに

真理とは○○である

というように、
否定の道」を歩むことによって得られた成果は、
肯定の道」から改めて語り直される必要がある、ということです。

超越の道」の場合は、なおのことで、

それは、そもそもが、
通常の論理を超越し、逸脱した論理であり、

それだけでは、
現実の世界の言語にすらなっていないので、

「超越の道」を歩むことによって得られた成果は、きちんと、
現実の日常的な言葉翻訳してから、
「肯定の道」によって語り直される必要があります。

以上のように、

哲学的探究における論理的思考の歩みは、

根源的な、哲学の問いに対して
端的に答えようとする、

肯定の道からはじまり

否定の道超越の道
さらに深く複雑な探究の道へと突き進んでいき、

そこから再び

肯定の道へと舞い戻って

それまでの探求によって得られた成果が、
肯定の道から語り直され

さらに、そこから次の探求へと踏み出す、

という循環の中で進んでいきます。

このように、

真理へと至るための哲学的探究の歩みは、

肯定の道」と「否定の道」と「超越の道」という
3つの道の循環によって、

進んでいくと考えられるのです。

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