生得観念という言葉に含まれる三つの意味の違いとは?哲学史における生得観念の解釈の変遷のまとめ

このシリーズの初回から前回までの記事で書いてきたように、

生得観念とは、一言でいうと、人間の心の内に生まれながらに備わっている観念や概念、イメージのことを意味する言葉であると考えられることなりますが、

こうした生得観念と呼ばれる観念のあり方は、古代ギリシア哲学におけるプラトンの思想や、中世のスコラ哲学、そして、その後のデカルトライプニッツといった近代観念論といった哲学史の流れの中で、互いに少しずつ意味の異なった概念として捉えられていくことになります。

そして、そうした様々な意味をもつ多義的な概念としての生得観念と呼ばれる観念のあり方が指し示す具体的な意味内容については、

大きく分けると、以下のような三つの意味に分類して捉えることができると考えられることになります。

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人間の魂の内なる普遍的な概念のことを意味するイデアとしての生得観念

まず、哲学史において、人間の心の内にある種の観念が生まれながらに備わっているとする生得観念と呼ばれる観念のあり方の原型となる議論がはじめて明確な形で唱えられるのは、

古代ギリシアの哲学者であるプラトンのイデア論の思想のなかで出てくる想起説の議論においてであると考えられることになります。

プラトンのイデア論のなかの想起説の議論においては、人間の魂の内には生まれながらに」や「等しさ」や「敬虔さといったプラトンがイデアideaと呼ぶ様々な普遍的な概念が備わっていて、

例えば、

人が自分が目にした何らかの具体的事物を「美しい」と感じる時には、そうした自らの心の内にある美のイデアとしての普遍的概念が想起されることによって、そうした美についての認識が成立しているというように、

人間におけるあらゆる認識は、そうした人間の魂の内に予め備わっているイデアと呼ばれる様々な種類の普遍的な概念が、現実の世界の具体的な事物についての感覚に触発されることで想起されることによって成立しているとする議論が提示されることになります。

プラトンの哲学思想においては、

人間の精神活動の源となる魂の存在は、本来、感性界としての地上の世界に属する存在ではなく、イデア界と呼ばれる天上の世界に属する存在として捉えられることになりますが、

つまり、こうした古代ギリシア哲学におけるプラトンのイデア論の思想においては、

人間の魂が属する天上の世界としてのイデア界に存在する「善」や「美」、「等しさ」や「敬虔さ」といった様々な種類の普遍的な概念としてのイデアの存在が人間の魂の内に生まれながらに備わった観念、すなわち、生得観念と呼びうる観念のあり方として捉えられていたと考えられることになるのです。

神や無限性といった人間の精神の内なる形而上学的観念としての生得観念

それに対して、

中世のスコラ哲学や、その後の近代観念論の祖であるデカルトの哲学思想においては、こうした生得観念と呼ばれる観念のあり方は、普遍的な観念の中でも、より限定された特別な種類の観念に対してのみ適用されていくことになります。

デカルトの神の存在証明の議論においては、

有限で不完全な存在である人間の精神は、自らの知性の力のみによっては、無限性や完全性といった自分自身には存在しない超越的な観念を生み出すことはできないといった議論から、

そうした無限性や完全性といった超越的な観念と、その源泉となる神の観念といった形而上学的な観念の存在は、現実の世界における具体的な事物の内に存在するものでもなければ、人間の精神が自らの知性の力によって生み出したものでもなく、

それらの形而上学的な観念は、超越的な存在である神によって、人間の魂の内に生まれながらに刻印された観念であるとする議論が展開されていくことになります。

つまり、神学が重視されていた中世のスコラ哲学や、その後のデカルトの哲学思想においては、

現実の世界の具体的な事物の内に存在するわけでもなければ、人間の精神が自らの知性の力によって生み出すことができるわけでもない無限性や完全性、さらには、そうした超越的な観念の源泉となる神の観念といった人間の精神の内にある形而上学的な観念の存在が、生得観念と呼びうる観念のあり方として捉えられるようになっていったと考えられることになるのです。

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人間の心の内に生まれながらに備わっている知性の力としての生得観念

そして、次に、

デカルトを祖とする近代観念論の哲学思想の系譜を受け継いでいった哲学者の一人であるライプニッツは、

唯物論者ガッサンディによるデカルト批判や、ジョン・ロックに代表されるイギリス経験論における生得観念の批判の議論を踏まえたうえで、

生得観念と呼ばれる観念のあり方は、人間の心の内において明確な定義や輪郭をもった概念として存在しているわけではなく、

それは、ライプニッツが微小表象と呼ぶ無意識的な認識の内に存在する潜在的な観念のあり方としても捉えることができるという道筋が示されていく一方で、

基本的には、そうしたあらゆる表象を一つの認識や観念へとまとめ上げている人間の心の内に存在する知性の力の存在自体生得観念と呼ばれる観念のあり方として捉え直されていくことになります。

つまり、ライプニッツの哲学思想においては、

人間の心の内に生まれながらに備わっている観念や概念、イメージのことを意味する生得観念と呼ばれる観念のあり方は、

人間の心の内に生まれながらに備わっている生得的な能力としての観念の力のことを意味する概念として捉え直されることになっていったと考えられることになるのです。

・・・

以上のように、

哲学において、生得観念と呼ばれる観念のあり方が指し示す具体的な意味内容の違いについて、大きく分けて分類すると、それは、

①人間の魂の内に生まれながらに備わった「善」や「美」「等しさ」や「敬虔さ」といったイデアと呼ばれる様々な種類の普遍的な概念

②人間の精神の内に生まれながらに与えられている「神」や「無限性」、「完全性」といった形而上学的な観念

③あらゆる表象を一つの認識や観念へとまとめ上げる人間の心の内に生まれながらに備わっている知性の能力や機能

という三つの意味に分類して捉えることができると考えられることになるのです。

・・・

初回記事:生得観念とは何か?①プラトンのイデア論における想起説と生得観念の関係と英語とドイツ語とフランス語における字義上の意味

前回記事カントの認識論におけるア・プリオリな形式と生得観念との関係、生得観念とは何か?⑦

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