ジョン・ロックとイギリス経験論における生得説の批判とタブラ・ラサ、生得観念とは何か?④
前回書いたように、近代観念論の祖であるデカルトによって提唱された無限性や神の観念についての生得説は、
彼と同時代のフランスの哲学者であったガッサンディによる批判を受けることによって論駁されていくことになります。
そして、こうしたガッサンディにおけるような生得観念を否定する経験論的認識論の思想は、ロックやヒュームといったその後のイギリス経験論の哲学者たちの思想の内へと受け継がれていくことになります。
ジョン・ロックによる生得説の批判とタブラ・ラサ
イギリス経験論の代表的な哲学者であり、近代的な社会契約論を提示した政治思想家としても知られる人物であるジョン・ロック(John Locke、1632年~1704年)は、
知性の内にあるすべてのものは、先に感覚の内にあったものであり、人間におけるすべての認識は感覚を通じた経験に基づいてのみ形成されているとするガッサンディや、さらにそれ以前のスコラ哲学へとさかのぼることができるアリストテレス主義的な経験主義の立場を継承したうえで、
人間は生まれながらにしてある種の原初的な思念や生得的な原理、普遍的な観念を備えていて、そうした生得観念を自らの魂の内に刻まれた状態で生まれてくるとする観念の生得説を批判する議論を展開していくことになります。
もともとは、プラトンの想起説に起源をもつ生得説の思想においては、
人間はその魂の内に「善」や「美」、あるいは、無限性や完全性といった普遍的な観念を生得的に備えた状態で生まれてくるものの、
知性が未発達な内には、そうした自らの魂の内にある普遍的な観念を自覚できない状態にあり、そうした自らの内にある生得的な観念を明確に理解し、再把握するためには、適切な方法によって導かれる哲学的探究が必要となると主張されることになります。
しかし、こうした生得説の主張に対して、ロックは、その主著である『人間知性論』の中で、
知性の内に何かがありながらそれが理解されないということや、心の内にあるものが知覚されないということは、何かが心や知性の内に存在しながら同時に存在しないと言っているのと同じであり、そうした主張は論理矛盾であるとして退けることによって、
プラトンからデカルトへとつながる生得観念の存在を主張する思想を全面的に批判してくことになるのです。
そして、こうした生得説に対する批判に基づいて、ロックは、
人間の心には感覚を通じた経験から受け取ったものを後付けで組み合わせたり加工していく能力は備わってはいるものの、その内にはいかなる生得的な原理や観念も予め刻み込まれてはおらず、
人間の心は、その誕生の時点において、言わば何も書き込まれていない白紙の状態、すなわち、タブラ・ラサ(tabula rasa、空白の書字板)の状態にあると結論づけることになるのです。
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以上のように、
イギリス経験論の代表的な哲学者であるジョン・ロックの哲学思想においては、ガッサンディによるデカルト批判が継承されていく形で、観念の生得説に対する批判が展開されていき、
それによって、人間の心は、誕生の時点においては、いかなる観念や原理も刻み込まれていない白紙の状態にあり、
人間におけるすべての認識は、感覚や知覚を通じてもたらされる経験に基づいてのみ成り立っていると結論づけられることになります。
そして、こうしたロックにおける経験論的認識論の思想は、その次の時代のイギリスの哲学者であるデイヴィッド・ヒューム(David Hume、1711年~1776年)の哲学思想の内にも基本的には受け継がれていき、
ヒュームにおいては、一切の観念の起源は、原初的な経験である印象の内に求められ、すべての認識はその源泉である印象へと還元されると主張されることによって、より徹底的な形で観念の生得説の否定がなされていくことになるのです。
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次回記事:ライプニッツにおける生得観念の定義①知性の生得的な能力と機能としての観念 、生得観念とは何か?⑤
前回記事:唯物論者ガッサンディによるデカルト批判と生得観念の全面的否定、生得観念とは何か?③
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