唯物論者ガッサンディによるデカルト批判と生得観念の全面的否定、生得観念とは何か?③
前回書いたように、近代観念論の祖ともいわれるデカルトの哲学思想においては、神の存在証明という観点から、無限性や完全性といった観念についての生得説が提唱されています。
そして、こうしたデカルトにおける生得観念の主張は、
同時代のフランスの哲学者であるガッサンディや、その後のイギリス経験論の系譜に属する哲学者たちであるロックやヒュームにおける経験論的認識論の立場から強い批判を加えられていくことになるのです。
唯物論者ガッサンディによるデカルト批判と生得観念の全面的否定
デカルト(1596年~1650年)と同時代のフランスの哲学者であるピエール・ガッサンディ(Pierre Gassendi、1592年~1655年)は、
古代ギリシア哲学におけるエピクロス派の唯物論の思想を近代哲学において復興させたことで知られる哲学者ですが、
ガッサンディは、こうした唯物論と、それに基づく経験論的認識論の立場から、デカルトによる神の存在証明と、その議論に基づく観念の生得説に対する批判を加えていくことになります。
デカルトの神の存在証明においては、無限性や完全性といった観念や、そうした観念の源泉である神の観念は、あらゆる感覚や経験を超越して、それらに先立って先天的に人間の知性の内に存在する生得観念であると主張されることになりますが、
それに対して、
デカルトの批判者であるガッサンディは、知性の内にあるすべてのものは、先に感覚の内にあったものであって、
すべての観念は、感覚を通して得られた様々な具体的な経験に対して、複合・分割・拡大・縮小・比較といった様々な作用が加えられることによって後天的に形成されていくものに過ぎないと主張することになるのです。
例えば、デカルトが生得観念の代表例として挙げている無限性の観念についても、ガッサンディにおいては、
それは、感覚によって得られた有限なものについての経験を複合し、どんどん拡大していくことによって得られる後天的な観念に過ぎないと主張されることになります。
有限なものを際限なく拡張していっても、それはやはり、どこまでいってもとてつもなく大きな有限なものに過ぎず、無限の観念そのものへと至ることはないのですが、
ガッサンディの主張に従うと、
そうした経験に基づく知性の働きによって得られる最大限に大きな有限なものについての観念をも超える人間の知性の限界を超えた範囲を示しているのが無限性の観念であり、
人間は、そうした人間の知性が及ばないよく分からない存在のことを指して、それを無限という観念として呼びならわしているのに過ぎないと考えられることになるのです。
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以上のように、
デカルトの批判者であり、唯物論者でもあったガッサンディは、
デカルトの神の存在証明の議論において提唱されている無限性といった超越的な観念の生得性についても、
それは、現実の物質的な存在についての具体的な経験が互いに複合され、拡張されていくことによって得られる後天的な観念に過ぎないと主張し、
デカルトが神の存在証明の議論に基づいて提唱した生得観念という観念の存在自体を全面的に否定してしまうことになります。
そして、このような一連の議論を通じてガッサンディは、
具体的な経験よりも先に、無限性や完全性といった超越的な観念が人間の知性の内に生得的に備わっているといったことは決してあり得ず、
人間におけるすべての認識は、感覚を通じた経験に基づいて形成されているのであって、感覚や経験に先んじて存在する観念や認識といったものは一切存在しないと結論づけることになるのです。
そしてその後、
こうしたガッサンディによるデカルト批判を通して形成されていった経験論的観念論の系譜は、フランスからドーバー海峡を越えてイギリスへとその思想的な中心地を移していき、
ロックやヒュームといったイギリス経験論に分類される哲学者たちの思想の内へと受け継がれていくことになるのです。
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次回記事:ジョン・ロックとイギリス経験論における生得説の批判とタブラ・ラサ、生得観念とは何か?④
前回記事:デカルトにおける生得観念の定義とは?神の存在証明に基づく無限性と完全性の観念の生得説、生得観念とは何か?②
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