ライプニッツにおける生得観念の定義②無意識へと通じる微小表象の内にある潜在的な観念の存在、生得観念とは何か?⑥
前回書いたように、近代ドイツの哲学者であるライプニッツにおいては、近代観念論の祖であるデカルトによって確立された生得観念という観念は、「善」や「美」といった明確な観念ではなく、
そうした様々な観念を形づくるもととなる知性の働きや能力の存在こそが、生得観念と呼ばれる観念の本質として捉え直されることになります。
それでは、「善」や「美」、あるいは、「神」や「私」といった一般的な意味における観念については、それはやはり、いかなる意味においても生得的な観念であると認めることはできないのか?ということですが、
それについては、ライプニッツの哲学思想の根幹にあるモナド論や予定調和説などの思想と関連するなかで明らかにされていく微小表象と呼ばれる認識のあり方に基づく新たな観点から生得観念を擁護する議論が展開されていくことになります。
ライプニッツにおける意識的表象と微小表象の違い
ジョン・ロックとイギリス経験論における生得説の批判とタブラ・ラサの記事で書いたように、
ライプニッツが批判の対象とするロックの『人間知性論』における生得説批判の議論においては、
心の内に何らかの原理や観念があるとするならば、そのような原理や観念は、意識において明確に知覚されているものでなければならず、
心の内に存在しながら意識も知覚もされていない観念があるというのは、何かが心の内に存在しながら同時に存在しないと言うのと同じ論理矛盾であるとして生得観念の存在自体が否定されることになります。
しかし、こうしたロックの生得観念批判の議論に対して、ライプニッツは、
人間の認識の内には、意識の対象として明確に知覚されている意識的表象(apperception、アペルセプスィヨン、統覚)とは区別される明確に意識されていない認識のあり方として、
微小表象(petite perception、プティット・ペルセプスィヨン)と呼ばれる無意識的な認識のあり方が存在するとする議論を展開していくことになります。
例えば、
ある人が海岸に立ちどまって、目の前に打ち寄せては引いていく大波の様子を眺めているとき、
その人の意識的表象においては、大きな一つの波が壁のように立ち上がっては崩れ去っていく様子と、ザーッという大雑把な音が捉えられているだけであって、
そうした大波を構成している一つ一つの波しぶきについての表象や知覚は、意識においては成立していないと考えられることになります。
しかし、それでは、現実の世界において大波を実際に構成している一つ一つの水滴についての表象が、それを知覚している人間の心の内には一切存在していないのかというと、決してそうではなく、
ライプニッツの考えに従うと、意識にはのぼらない無意識的な認識の段階である微小表象のレベルにおいては、そうした限りなく細かい個々の水滴についての微細な認識が存在していて、
むしろ、そうした細かい水しぶきの一滴一滴の姿と、個々の水滴が互いにぶつかり合う一つ一つの細かな音についての微小表象が積み重なり、
それらの限りなく細かい個々の表象が、統覚とも呼ばれる意識的表象の力によって一つにまとめられることによって、人間の心の内にある明確な認識や観念が形づくられていると考えられることになるのです。
無意識的な認識にあたる微小表象の段階における生得観念の存在
それでは、こうした無意識的な認識の段階にあたる微小表象と呼ばれる認識のあり方においては、そうした表象の力が及ぶ範囲は、具体的にどのくらいまで遠く及んでいると考えられるのかというと、
そうした限りなく微細な表象が人間の心へと届く範囲に明確な制限がない以上、それは空間においても時間においても限りなく遠くまで及びうると考えられることになります。
そして、ライプニッツの哲学思想においては、
宇宙を構成する非物質的な単純実体であり、人間の魂の本性でもあるとされるモナド(monade、単子)と呼ばれる究極の実体においては、
それぞれのモナドには、こうした微小表象を介して、世界の内にあるすべての存在についての知が予め内包されていて、
そうした予め自己自身の内に内包された知に基づいて、互いに独立した個々のモナドが自己展開していくという予定調和において、宇宙全体の秩序が形づくられているという壮大な世界観が展開されていくことになります。
そして、
こうしたライプニッツのモナド論と予定調和説に基づく微小表象の議論に基づくと、
モナドを究極の実体とする人間の心は、微小表象と呼ばれる無意識的な認識の段階においては、その誕生の瞬間から、世界の内にあるすべての存在に関する微小表象をすでに持っていて、
そうした微小表象と呼ばれる無意識的な認識の内に存在する潜在的な観念のあり方として、人間の心の内に生まれながらに備わっている生得観念の存在を認めることが可能となると考えられることになるのです。
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以上のように、
ライプニッツの認識論においては、人間の認識のあり方には、対象を明確に意識している意識的表象と呼ばれる認識のあり方の他に、
そうした一つの明確な意識へとまとめられる前の段階の微細な認識である微小表象と呼ばれる認識のあり方も存在するとされることになります。
そして、こうしたライプニッツにおける微小表象の議論に基づくと、
人間の心は、現実の世界における事物を意識的表象として実際に知覚する前に、そうした世界の内にあるすべての存在に関する微小表象をすでに持っていて、
生得観念と呼ばれる生まれながらに備わった観念の存在は、そうした微小表象と呼ばれる人間の心の無意識の階層において存在しているとも捉えられることになるのです。
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次回記事:カントの認識論におけるア・プリオリな形式と生得観念との関係、生得観念とは何か?⑦
前回記事:ライプニッツにおける生得観念の定義①知性の生得的な能力と機能としての観念、生得観念とは何か?⑤
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