カントの認識論におけるア・プリオリな形式と生得観念との関係、生得観念とは何か?⑦
前々回と前回の記事で書いたように、近代のドイツにおける万能人として知られる哲学者であるライプニッツにおいて、人間の心に生まれつき備わった観念のことを意味する生得観念の存在は、
「善」や「美」といった様々な観念を形づくるもととなる知性の働きや能力であり、それは、人間の心の無意識の階層にあたる微小表象と呼ばれる認識の内に含まれる観念のあり方としても捉えられることになります。
そして、こうしたライプニッツにおける生得観念の概念は、その少し後の時代の同じドイツの哲学者であるカントの哲学において、さらに新たな形で捉え直されていくことになるのです。
ライプニッツの生得観念とカントのア・プリオリな認識形式との関係
イマヌエル・カント(Immanuel Kant、1724年~1804年)は、自らが切り拓いた超越論哲学あるいは批判哲学と呼ばれる新たな哲学の道筋において、
ロック、バークリ、ヒュームなどに代表されるイギリス経験論と、デカルト、スピノザ、ライプニッツなどに代表される大陸合理論と呼ばれる近代哲学の二つの流れの対立に一つの調停をもたらしたとされる哲学者であり、
その後のフィヒテ、シェリング、ヘーゲルへと続くドイツ観念論哲学の礎を築いた人物でもあります。
そして、冒頭で書いたように、ライプニッツにおいては、あらゆる経験に先立って人間の心の内に存在する知性の働きや能力の存在は、生得観念という概念として捉えられることになるのですが、
それに対して、カントは、自らの超越論哲学において、あえて生得観念という言葉は使わずに、
経験に対して時間的にではなく、論理的に先立つ認識形式という意味で、ア・プリオリな形式という概念を導入していくことになります。
カントの超越論哲学においても、ライプニッツの場合と同様に、人間の認識においては、経験に先立って先天的に備わっている知性の働きが存在しているという考え方自体はそのまま引き継がれていくことになるのですが、
ライプニッツが、そうした様々な認識や観念を形成する知性の働き自体も、観念を生み出す観念の一つとして捉えられると考え、それを生得観念という概念として捉えていたのに対して、
カントの場合は、そうしたあらゆる認識や観念を形成するための条件となる知性の働き自体は、もはや、何らかの具体的なイメージや内容を持った観念ではあり得ず、それは、それ自体はいかなる内容も持たずに、空虚な形式としてのみ存在すると考え、
具体的には、感性における直観としての時間と空間という二つの形式や、悟性(知性)における量・質・関係・様相といった認識のカテゴリー形式がそうした人間の認識におけるア・プリオリな形式として捉えられていくことになります。
このように、
ライプニッツにおいて、生得観念という概念において捉えられていた人間の心の内に経験に先立って存在する知性の働きや能力の存在は、
カントの超越論哲学においては、すべての認識と経験を成り立たせるための条件として人間の心の内にあらゆる経験に先立って存在する先天的な認識形式のことを意味するア・プリオリな形式として捉え直されていくことになるのです。
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以上のように、
プラトンのイデア論における想起説の議論にはじまる人間の心の内に生まれながらに備わっているとされる生得観念をめぐる哲学的議論は、
デカルトにおける神の存在証明の議論を通じて示される無限性や完全性、さらには、神自体の観念の生得性の主張を経たうえで、
ロックやヒュームといったイギリス経験論の哲学者たちによる生得説批判と、それに対する、ライプニッツによる生得観念の擁護論へとつながり、
さらには、カントの超越論哲学におけるア・プリオリな形式と呼ばれる先天的な認識形式についての議論へと引き継がれていったと考えられることになります。
そして、ライプニッツによって提示された経験に先立って存在する知性の働きや能力としての生得観念の概念は、
カントの超越論哲学において、あらゆる認識と経験の前提となる人間の心の内にある先天的な認識形式のあり方として捉え直されていくことによって、
人間の心の存在と認識のあり方をめぐるより洗練された議論へとつながっていったと考えられることになるのです。
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初回記事:生得観念とは何か?①プラトンのイデア論における想起説と生得観念の関係と英語とドイツ語とフランス語における字義上の意味
前回記事:ライプニッツにおける生得観念の定義②無意識へと通じる微小表象の内にある潜在的な観念の存在、生得観念とは何か?⑥
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