自分自身の生き方と魂のあり方の追求としての精神的幸福、ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?⑤
前回書いたように、
功利主義において、いじめや迫害行為といった少数者の犠牲を容認することによって多数者の幸福の最大化を図ろうとする悪しき力の論理を根本的に否定するためには、
ミルの質的功利主義において主張されているような快楽と幸福について質的な視点を導入することが不可欠であると考えられることになります。
そして、それは、
ミルの質的功利主義における精神的な快楽と幸福を重視する思想によって適切に説明されると考えられることになるのです。
量において大きい苦痛と、質において悪しき不幸
例えば、
ベンサムの量的功利主義におけるように、人間の幸福や快楽のすべてを身体的快楽をベースに持つ量的なものとして捉え、心理的快楽もそうした身体的快楽から派生するものであると考えると、
いじめにおいて被害を被るのは、一方的に被害者だけであり、被害者がいじめられることによって身体的・心理的苦痛を被るのに比例して、加害者たちはうっぷん晴らしができたり、支配欲が満たさたりするといった暗い身体的・心理的快楽を得ることができると考えられることになります。
しかし、それに対して、
精神的快楽を身体的快楽よりも重視するミルの質的功利主義の立場に従うと、いじめや迫害行為によって害を被るのは必ずしも被害者サイドだけではないと考えられることになります。
ミルが重視する精神的快楽においては、知的快楽や精神的幸福としての魂のあり方や人間の生き方自体が問題になると考えられることになりますが、
こうした観点に立つと、
いじめの加害者は、いじめを行うことによって被害者に身体的・心理的苦痛を与えるだけではなく、
自分の魂のあり方や生き方自体を歪め、傷つけることによって、自分自身に対して精神的苦痛と不幸を与えているとも考えられることになります。
別の言い方をするならば、
確かに、いじめられることによって被害者は、量においては、大きな苦痛を身体的・心理的に被ることになるのですが、
弱者をいじめることによって、いじめに加わってしまった加害者は、自分が被害者に加えられている以上の悪しき苦痛と不幸をその質においては被ることになってしまうと考えられることになるのです。
そして、これとちょうど同じことが、現に行われているいじめを見過ごす行為についても言えることになります。
自分自身の生き方と魂のあり方の追求としての精神的幸福
例えば、
目の前で行われているいじめを黙認し、そのまま無かったことにして通り過ぎてしまえば、その人は、当座のところは現在の自分自身の身体的・心理的幸福を保持することができるのですが、
その一方で、
目の前で苦しんでいる人を自分の手で助けられたにも関わらず、見殺しにしたことによって、その後の長きにわたって良心の呵責といった精神的苦痛に苛まれる危険を冒すことになってしまうとも考えられることになります。
そして、このように、人間の幸福や快楽をその場における一時的な身体的・心理的快楽の大きさだけではなく、人生全体という長い期間から見た魂のあり方や人間の生き方としての精神的幸福という観点からも捉える考え方に従うと、
いじめを止めようとする行為は、いじめをやめさせることによって、いじめられている相手を身体的・心理的苦痛から救ってあげるだけではなく、
その後の自分自身の生き方をより善いものへと方向づけ、自らの心と魂に深い充足感をもたらすという自分自身の精神的幸福へもつながる行為であると捉えられることになるのです。
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以上のように、
人間の幸福や快楽における身体的快楽の側面だけではなく精神的幸福の側面も重視し、そうした快楽と幸福における質的な視点を重視する観点に立つと、
いじめや迫害行為によって少数者の犠牲を強いる行為は、被害者に身体的・心理的苦痛をもたらすだけではなく、加害者自身の魂のあり方や生き方自体をも傷つけ、長期的にはその精神的幸福を奪い去る行為として全面的に否定されることになります。
そして、それと同じ論理によって、
いじめを止めようとする行為は、他者の幸福の実現のために別の個人の幸福と快楽を犠牲にしてはならないとする、功利主義の根本にある個人主義の原理にも適った善き行為として認められることになります。
なぜならば、
勇敢にも、たった一人であってもいじめを止めようとする行為に及ぶ人物は、その行為がもたらす物理的な結果がどうであれ、少なくとも、その行為を遂行したという事実において、質においてはるかに優る精神的快楽と幸福を自分自身の生き方において選び取ることができると考えられることになるからです。
ミルの質的功利主義の思想については、以前にも、
「満足な豚であるより、不満足な人間である方が良い。それと同じように、満足な愚者であるより、不満足なソクラテスである方が良い。」
という彼自身が自分の功利主義の思想を語るのに用いた有名なフレーズについて取り上げましたが、
こうした言葉にも現れている通り、ミルは、まさにソクラテスのような生き方のことを念頭においたうえで、自分の功利主義の思想における精神的な快楽と幸福のあり方を追求していったと考えられることになります。
そして、
ミルの唱えた質的功利主義の主張に基づくと、たとえ、自らが選んだ行為によって自分に身体的・心理的苦痛がもたらされるとしても、その行為が自分自身の生き方と自らの魂のあり方をより善いものへと導く行為であるとするならば、
それは質的な視点が導入された功利主義においては、当人に深い精神的幸福という功利をもたらす善き行為として認められることになりますが、
こうした考え方は、
「善く生きる人には、生きているときにも死んでからも悪しきことは何一つ起こることがない」(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、32節)
と語るソクラテスの考え方、生き方、そして、彼が求めた善く生きるという人間のあり方とも重なる思考であると考えられることになるのです。
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初回記事:最大多数の最大幸福とは何か?①ハチスンにおける善意と道徳感情の原理
前回記事:少数者の犠牲を容認する悪しき力の論理を否定するための思想、ベンサムの量的功利主義とミルの質的功利主義の違いとは?④
関連記事:善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道
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