善く生きるとは何か?①ソクラテスにおける魂の気遣いと知の愛求への道

善く生きる」とは、ソクラテスが彼自身の人生のすべてをかけて求め続けてきた生き方であり、彼自身の哲学活動における最大のテーマでもあったのですが、

それでは、

ソクラテスの言う「善く生きる」とは、具体的にはどのような生き方のことを指すことになるのでしょうか?

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「善く生きる」という生き方の核心としての魂への気遣い

プラトン著『ソクラテスの弁明』の中で、ソクラテスは、自分が今まで行ってきた哲学探究の活動がどのようなものであり、それがいかなる意味で善なる生き方に適った行いであるのか?ということについて以下のように語っています。

私は自分の息と力の続く限り知を愛求し諸君に忠告し続けることをやめないであろう。…

そして、また、私は以下のようにも信じてもいる。
神に対する私のこの奉仕以上に大きな善がこの国で行われたことがいまだかつてなかったということを。

なぜならば、私が歩き回ってしていることと言えば、身体のこと金銭のことも、どのようにすれば魂をできるだけ優れたものにすることができるのかということ以上に、あるいは同じくらいにでも気遣ってはならないということを、老いも若きも諸君のすべてに向かって説いて回ることにほかならないからである。

(プラトン著、『ソクラテスの弁明』、第17節)

つまり、

ソクラテスにおいて、この世界で最も価値がある善なる行いとされることは、

経済活動を通じてお金を稼ぐことでも、運動や食生活によって体を気遣い、自らの健康と容姿を維持することでもなく、

ひとえに自分の魂をより優れた善なるものにするという魂への気遣いにほかならないということです。

そして、

こうした魂への気遣い、すなわち、自らの魂を善いものへと高め、さらには、周りの人々の魂をも巻き込んで、それらを共により優れたより善いものへと高めていくための知の愛求こそが人生の最大の目的であり、それが善く生きるという生き方の核心でもあると考えられることになるのです。

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魂と身体と金銭の三位一体の関係と魂が善きものであることの意味

ところで、

上記のソクラテスの言葉において、金銭身体への気遣いに比べて、魂への気遣いの方を重視してそれを優先すべきであるということが語られているからといって、

それは、もちろん、経済面や身体面への配慮をおろそかにしてもいいということを意味しているわけではありません。

身体が不調となり、健康を害して病気になってしまえば、魂を気遣うための思考活動にも支障をきたしてしまいますし、病状が悪化して重病となれば、最終的には、善く生きるための前提となる命自体が失われてしまうことになります。

そして、

経済面での困窮も、それが窮まれば、自由に知を愛求するための心理的な余裕も失われていきますし、金銭面の不足を補うために無理を重ねれば、身体の不調も引き起こされやすくなることになります。

このように、

身体金銭の関係は、健全で幸福な人生を歩むうえでは、どれもが欠かすことができない三位一体の関係にある要素であると考えられることになるのです。

しかし、それでは、

これらの三つの要素のすべてがその人の人生における意味と価値を決定づけるのに同等の重要性を持った要素なのか?というと、必ずしもそうではなく、

例えば、

いかに、身体が丈夫有り余るほどの富に囲まれていたとしても、その人の魂が未熟で悪しきものであるとするならば、その人生自体が無意味で無価値なものとなり、

世界にとっても、その人自身にとっても、むしろこの世に生まれてこない方がよかったという結論にさえ行き着いてしまうと考えられることになります。

それに対して、

たとえ、健全な身体に恵まれず十分なお金もなくて、経済的な困窮の内に短命の人生を終えるとしても、その人の魂が善きものであったとするならば、

その人の魂とそこから放たれる言葉と行為が周りの人々の魂にも働きかけ、これを癒し、世界に何らかの良い影響を必ず残していくことになるので、

その人の困窮の内に終えた短い人生がまったくの無価値で意味のないものであったということには到底なり得ないということになります。

そして、むしろ、

そのような経済的困窮と病による身体的苦痛といった苦難を与えられてもなお、自らの魂をより優れたより善いものにする探究を試み続けたその意志の強さ気高さこそが、

その人の人生が、世界にとってもその人自身にとっても大きな価値のある素晴らしいものであったことの確固たる証明となると考えられることになるのです。

それはちょうど、

ソクラテス自身の人生が、晩年は経済的にも困窮した状態にあり、最後には、無実の罪によって死刑判決を下されることになりながらも、

その判決から逃れるために自らの考えを曲げることもなく、最期まで、自分の考えと生き方を貫き通した人生であり、

そうした知の愛求善く生きることを探究し続ける姿勢を貫き続けたソクラテスの生き方と死に様自体が、ソクラテス自身の魂の善さと気高さを明確に表しているのと同じ関係にあると考えられることになります。

・・・

以上のように、

ソクラテスの言う「善く生きる」ということの核心には、自らの魂を善くするための魂への気遣いと、それをもたらすための知の愛求があると考えられることになるのですが、

それでは、こうした善く生きるための魂への気遣い知の愛求は、より具体的にはどのようにして実現されていくことになるのでしょうか?

・・・

次回記事:善く生きるとは何か?②四元徳に基づく善い生き方とソクラテスにおける知徳一致の思想

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