マラソンの由来とは?古代ギリシアのマラトンの戦いとアテネの使者フェイディピデスの力走と死の物語
オリンピックの最終日に競技が行われることが多い近代オリンピックにおける代表的な陸上競技としては、42.195kmを走る長距離走の種目にあたるマラソン競技が有名ですが、
こうしたマラソン競技におけるマラソンという言葉自体の由来は、現在のギリシアの首都にあたるアテネの北東に位置していたマラトンと呼ばれる古代ギリシアの地名に求められることになります。
そして、詳しくは以下で述べていくように、かつてこの地において行われたギリシア軍とペルシア軍との戦いであったマラトンの戦いにおけるアテネの使者であったとされているフェイディピデスの力走と死の物語が土台とされることによって、
こうした近代オリンピックにマラソン競技のあり方が形づくられていくことになっていったと考えられることになります。
ペルシア帝国とギリシア世界という二つの文明の衝突としてのマラトンの戦いの位置づけ
そうすると、まず、
近代オリンピックにおけるマラソン競技の大本の起源となった戦いとしても位置づけられている紀元前490年に行われたマラトンの戦いは、
古代の東方世界に君臨していた大国にあたるメディア、リュディア、新バビロニア、エジプトの四王国を次々に滅ぼしてオリエント世界を統一したペルシア帝国が、
紀元前499年に起きたイオニアの反乱を鎮圧したのち、アテネやスパルタが位置するギリシア本土へとその版図の拡大を図っていくなかで戦端が開かれていくことになった戦いとして位置づけられることになると考えられることになります。
そして、この時、
古代ギリシアの歴史家であったヘロドトスの『歴史』 における記述によれば、紀元前490年、ダレイオス1世の命を受けて、ペルシア帝国の西の王都であったサルディスを出立したペルシアの軍勢は、
600隻もの大艦隊と2万人にもおよぶ大軍を引き連れて、東方世界とヨーロッパとを分かつ地中海の東部の海域であったエーゲ海を渡っていくことになったとされています。
そして、その後、
こうしたペルシアの大艦隊は、まずは、ギリシア本土の北東に位置するエウボイア島の都市国家であったエレトリアへと向かい、
七日間にもおよぶ激しい戦いの末に、この地を征服したのちに、対岸に位置していたマラトンへと軍を進め、
ついに、この地域を支配下においていたアテネの軍勢と、マラトンの地において対峙することになるのです。
マラトンの戦いにおけるギリシア軍の勝利とアテネの使者フェイディピデスの力走と死の物語
こうした総勢で2万にもおよぶ騎兵や歩兵の混成部隊から成るペルシアの大軍に対して、そうしたペルシアの侵略からギリシア本土を守るギリシア側の軍勢は、
アテネの9000と、近隣の小国であったプラタイアから援軍に駆けつけた600人を合わせた全部合わせても1万も満たないペルシア側の半分以下の勢力であったと考えられているのですが、
そうした数の面での圧倒的な不利を強いられるなか、アテネが誇る名将であったミルティアデスが率いる重装歩兵を主力とするアテネとプラタイアの連合軍は、
重装歩兵の結束の固い密集陣形をいかして、ペルシア軍の陣営へと急襲を仕掛け、そのまま白兵戦での決戦を挑んでいくことによって、
最終的に、数では大きく上回るはずのペルシア軍の側が、自らの国を守ろうとする士気の高いギリシア軍の重装歩兵の軍団の圧力に押されて戦線の両翼が崩壊して、そのまま兵士たちが壊走してしまうことになり、
マラトンの戦いは、ペルシア軍の戦死者の数が6400人にもおよんだのに対して、アテネ軍の戦死者がわずか192人だけにとどまるというギリシア軍側の大勝利に終わることになります。
そして、この時、
こうしたマラトンの戦いにおけるギリシアの勝利と、ペルシア軍を退けることによってギリシア世界の平和が守られたという良き知らせを彼らの祖国であったアテネの人々のもとへといち早く届けるために、
フェイディピデスまたはエウクレスという名として伝えられているアテネの使者が、戦場であったマラトンからアテネまでの40kmほどの道のりを喜び勇んで全力で走り抜けていったと語り伝えられていて、
ついに、自らの故郷であるアテネの地へとたどり着いたこのアテネの使者が、その場に集っていた人々の前で「我らは勝ったのだ」という勝利を告げ知らせる言葉を残して、そのまま力尽きて命を落としてしまうことになったという話が、
こうした現代のオリンピックにおけるマラソン競技の大本の由来となるエピソードとして語り伝えられていくことになっていったと考えられることになるのです。
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そして、
こうした現代のオリンピックにおけるマラソン競技の由来となったマラトンの戦いにおけるアテネの使者の物語について語られている有名な文学作品としては、
以前の記事のなかでも紹介した、以下のような古代と近代における二篇の詩の存在を挙げることができると考えられることになります。
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使者としての役割を果たしたフェイディピデスは、戦いがどのように終わったのかを深く心配するアテネの人々の前へと進み出て、マラトンの戦いの勝利を告げ知らせる言葉を叫んだ。
「喜びを。我らは勝ったのだ。」彼はそう言った。
そして、彼はその言葉と共に死んだ。
彼は「喜びを」というその一言ののちに彼の人生における最後の息をついたのである。
(帝政ローマ期のシリアの詩人であったルキアノスの散文詩より)
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「走れ、フェイディピデス。アクロポリスへ。もうひとたび駆け抜けるのだ。この勝利に報いることがお前の務めなのだ。アテネは救われた。パーンの神に感謝してそう叫ぶのだ。」
彼は自らの盾を投げ捨てると、ふたたび炎のように走り出したのである。
がフェンネルの畑を駆け抜けていくなか、アテネは炎が走り抜けていく畑のなかの刈り株のように再び静まり返っていた。彼がその静寂を打ち破るまでは。
「喜びを。我らは勝ったのだ。」
土のうちからワインが流れ出していくかのように、
彼の体を流れる血の歓喜がその心臓を弾けせたのである。
こうして彼は死んだ。至上の喜びのうちに。
(19世紀のイギリスの詩人ロバート・ブラウニングの『フェイディピデス』より)
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マラソンの起源と由来に関する記事の一覧
①マラトンの戦いとマラソンとの関係とは?①ペルシア帝国によるオリエント統一とイオニアの反乱でのギリシア本土からの救援
②マラトンの戦いとマラソンとの関係とは?②アテネとプラタイアの重装歩兵とペルシアの大軍との戦いと勝利を告げる使者の声
③マラトンとアテネの地理的な位置関係とは?二つの都市の間の距離の長さとアテネクラシックマラソンのコース
④マラトンの戦いの使者がマラソンよりも長い距離を走ったとされる理由とは?全長520kmにおよぶフェイディピデスの伝令の旅
⑤マラトンの戦いの使者として二人の人物の名が挙げられる理由とは?フェイディピデスとエウクレスというアテネの二人の使者
⑥マラソンの起源となったアテネの使者の力走と死の物語が最初に語られている古代ローマの詩人ルキアノスの散文詩の内容とは?
⑦マラトンの戦いの勝利を伝えて死んだ使者のために捧げられたイギリスの詩人ロバート・ブラウニングの詩の和訳と解釈
⑧古代オリンピックの長距離走におけるラダスの死と古代ギリシアにおけるミュロンの彫刻
⑨ドランドの悲劇とは何か?ロンドンオリンピックでのピエトリの幻のゴールと古代ギリシアのマラソンにおけるラダスの死
⑩オリンピックのマラソン競走における世界三大悲劇とは?古代から現代へと続く長距離の競走競技における三つの悲劇の物語
⑪マラソンの距離が42.195kmになった理由とは?ロンドンとパリの二つのオリンピックと当時のイギリスの王室事情
⑫世界で最初のマラソン大会とは?アテネオリンピックとボストンマラソンにおけるマラソン競技の導入とマラソンの距離の変更
⑬マラソンの由来とは?古代ギリシアのマラトンの戦いとアテネの使者フェイディピデスの力走と死の物語
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次回記事:歴史から抹消された二つのオリンピック大会とは?古代と近代における開催後に正式な記録から消えた二つの非公式な大会
前回記事:世界で最初のマラソン大会とは?アテネオリンピックとボストンマラソンにおけるマラソン競技の導入とマラソンの距離の変更
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