マラトンとアテネの地理的な位置関係とは?二つの都市の間の距離の長さとアテネクラシックマラソンのコース

前回の記事で書いたように、現代のオリンピックにおけるマラソン競技におけるマラソンという言葉の由来は、

ペルシア軍による侵略から、ギリシア世界を守った戦いとして位置づけられることになる紀元前490におけるマラトンの戦いにおいて、

アテネとプラタイアの連合軍ペルシア軍に大勝利をおさめたことを、いち早く故郷のアテネの人々へと告げ知らせるため、

マラトンの戦場からアテネまで走りきったのちに、人々に勝利を告げ知らせる言葉を残して命を落としてしまうことになった

マラトンの戦いにおける勝利を告げ知らせる使者伝説的な力走にその大本の起源が求められることになると考えられることになるのですが、

今回の記事では、こうしたマラトンの戦いの際に実際にアテネ軍の使者が走ったとされているマラトンとアテネの間の距離と、二つの都市地理的な位置関係のあり方について、もう少し詳しく考えていってみたいと思います。

スポンサーリンク

マラトンとアテネの地理的な位置関係と両者の間の距離

マラトンとアテネの地理的な位置関係

そうすると、まず、上記の図において示したように、

マラトンの戦いにおいて戦場となったマラトンの地と、マラトンの戦いにおけるギリシア軍側の中心となる都市国家であったアテネは、両方とも、ギリシアの南部にあたるアッティカ半島の南東部に位置していて、

当時のマラトンアテネから見て北東の方角に位置する小都市であったと考えられることになります。

そして、

紀元前490アテネとプラタイアの連合軍ペルシア軍の戦いにあたるマラトンの戦いが行われた正確な位置は、

こうしたアテネの北東に位置する小都市であったマラトン近郊海辺近くの平原であったと考えられることになるのですが、

こうしたマラトンの戦場アテネとの間は直線距離にして30kmほど離れていたと考えられることになります。

そして、実際には、

マラトンの地を出発したアテネ軍の使者は、マラトンとアテネの間に位置する山々を避けて丘陵地帯を乗り越えていきながらアテネへと走っていくことになっていったと考えられることになるので、

こうしたアテネ軍の使者が実際にたどっていくことになったマラトンからアテネまでの実際の道のりの長さは、

現在のマラソンの距離にあたる42.195kmの長さにほど近い、だいたい40kmほどの距離であったと考えられることになるのです。

スポンサーリンク

アテネクラシックマラソンにおけるアテネ軍の使者の力走を追体験するマラソンコース

ちなみに、

1896に開催された近代オリンピック最初の大会にあたるアテネオリンピックにおけるマラソンコースがもととなった1972にはじまるアテネクラシックマラソンと呼ばれるマラソン大会におけるマラソンコースにおいては、

こうしたマラトンの戦いの古戦場に近いマラトンの町を出発して、東の海岸沿いを南下していったのち、進路を西へと大きく向けかえて、アテネの真東に位置するピケルミの町を通ってアテネへと到着するという形で、42.195kmのルートが確保されることになります。

つまり、そういった意味では、

こうした1972から開催されているアテネクラシックマラソンと呼ばれる国際陸上競技連盟からも公式に認定された大規模なマラソン大会においては、

毎年11になると、大会に参加するランナーたちが、ちょうどこうしたマラトンの戦いにおけるアテネ軍の使者の力走を一緒に追体験していくような形で、

マラトンからアテネへと続く歴史の重みのある伝統的なマラソンコースを走っていくことになっていると考えられることになるのです。

・・・

次回記事:マラトンの戦いの使者がマラソンよりも長い距離を走ったとされる理由とは?全長520kmにおよぶフェイディピデスの伝令の旅

前回記事:マラトンの戦いとマラソンとの関係とは?②アテネとプラタイアの重装歩兵とペルシアの大軍との戦いと勝利を告げる使者の声

オリンピックのカテゴリーへ

 

古代ギリシア史のカテゴリーへ

スポンサーリンク
サブコンテンツ

このページの先頭へ