マラトンの戦いとマラソンとの関係とは?②アテネとプラタイアの重装歩兵とペルシアの大軍との戦いと勝利を告げる使者の声
前回の記事で書いたように、古代の東方世界に君臨していた大国にあたるメディア、リュディア、新バビロニア、エジプトの四王国を次々に滅ぼしてオリエント世界を統一したペルシア帝国は、その後、
紀元前499年に起きたイオニアの反乱を鎮圧したのち、アテネやスパルタが位置するギリシア本土へとその版図の拡大を図っていくことになるのですが、
こうしたて東方のペルシア帝国の支配が西方のギリシア世界へと拡大していくなかで、ギリシア本土にまで遠征していくことになったペルシア軍と、それを迎え討つアテネを中心とするギリシア軍との間で、
現在のマラソン競技におけるマラソンという言葉の由来となったマラトンの戦いと呼ばれる戦いがはじまっていくことになると考えられることになります。
エレトリアの滅亡とペルシア軍のマラトンへの進軍
当時のアケメネス朝ペルシアの王であったダレイオス1世は、イオニア地方のギリシア諸都市を完全に帝国の支配下へと組み入れたのち、さらに西方に位置するギリシア本土への侵攻を計画していくことになるのですが、
そうしたギリシア本土への侵攻をもくろむダレイオス1世の目は、真っ先に、イオニアの反乱へと加担したアテネやエレトリアといったエーゲ海沿岸のギリシア人都市国家群へと向けられていくことになります。
そして、
紀元前490年、ダレイオス1世の命を受けて、ペルシア帝国の西の王都であったサルディスを出立したペルシアの軍勢は、
その後、かつての反乱地域にあたり、現在は完全に帝国の支配のもとに服しているイオニア地方の中心都市であったミレトスの近くを経由して、600隻もの大艦隊を引き連れてエーゲ海を渡っていくことになるのですが、
そうしたペルシアの大艦隊は、まずは、ギリシア本土の北東に位置するエウボイア島の都市国家であったエレトリアへと向かい、
七日間にもおよぶ激しい戦いの末に、この地を征服したペルシア軍は、次に、その矛先をアテネと向け、エレトリアの対岸に位置していたマラトンへと軍を進め、
ついに、この地域を支配下においていたアテネの軍勢と、マラトンの地において対峙することになるのです。
アテネとプラタイアの重装歩兵とペルシアの大軍との戦い
そして、
ペルシアの大軍を目にしたアテネ軍は、すぐに、南西に位置するペロポネソス半島の陸軍強国であったスパルタへと援軍を求める使者を派遣することになるのですが、
国家としての重要な祭儀にあたるカルネイア祭の神聖な祈りの期間にあったスパルタは、一週間ほどののちの満月の日になるまで出兵することはできないとして援軍を出し渋り、
窮地に立たされたアテネ軍のもとには、同盟関係にあった近隣の小国であったプラタイアから600人だけの重装歩兵の援軍が到着することになります。
そして、
アテネの9000人とプラタイアの600人だけを合わせた1万人ほどのギリシア側の軍勢に対して、そのおよそ2倍にあたる2万人ほどのペルシア軍がこの地において対峙することになるのですが、
いざ戦いがはじまると、数では大きく上回る騎兵や歩兵の混成部隊から成るペルシア軍の側が、自らの国を守ろうとする士気の高いアテネとプラタイアの連合軍の側の重装歩兵の軍団の圧力に押されて戦線の両翼が崩壊し、そのままペルシア方の兵士たちが壊走していってしまうことになります。
そして、その後、
ペルシア軍は、そのまま海岸に停泊していた自分の軍艦へと撤退をはじめていくことになるのですが、急いで船に乗ろうと焦るペルシア軍に対してアテネ軍がさらに追撃を加えていくことによって、
マラトンの戦いは、ペルシア軍の戦死者の数が6400人にもおよんだのに対して、アテネ軍の戦死者がわずか192人だけにとどまるというギリシア軍側の大勝利に終わることになるのです。
マラトンの戦いにおけるギリシア軍の勝利を告げ知らせる使者の声
そして、この時、
こうしたマラトンの地におけるギリシア軍の大勝を受けて、自分たちの軍がペルシア軍を打ち破り勝利をおさめたことと、ペルシア軍を退けることによってギリシア世界における平和が守られたという良き知らせをアテネの人々のもとへといち早く届けるために、
フェイディピデス(Pheidippides)またはエウクレス(Eukles)という名として伝わるアテネ軍の使者が、自分の重装歩兵としての装備も解かぬまま、アテネまでの道のりを喜び勇んで走り抜けていったと伝えられていて、
ついに、自らの故郷であるアテネの地へとたどり着いた彼は、その場に集っていたアテネの人々の前で「我らは勝てり」という勝利を告げ知らせる言葉を残して、そのまま力尽きて命を落としてしまうことになります。
そして、
こうしたペルシア軍による侵略から、アテネの地そしてギリシア世界を守った戦いとして位置づけられることになるマラトンの戦いにおいて、
マラトンの戦場からアテネまで走りきったのちに、人々に勝利を告げ知らせる言葉を残して命を落としてしまうことになった
マラトンの戦いにおける勝利を告げ知らせる使者の伝説的な力走が大本の起源となることによって、そののち、時を越えて、現代のオリンピックにおけるマラソン競技が新たに生まれていくことになったと考えられることになるのです。
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次回記事:マラトンとアテネの地理的な位置関係とは?二つの都市の間の距離の長さとアテネクラシックマラソンのコース
前回記事:マラトンの戦いとマラソンとの関係とは?①ペルシア帝国によるオリエント統一とイオニアの反乱でのギリシア本土からの救援
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