マラトンの戦いの使者がマラソンよりも長い距離を走ったとされる理由とは?全長520kmにおよぶフェイディピデスの伝令の旅
前回の記事で書いたように、現代のオリンピックにおけるマラソン競技の起源となった古代ギリシアのマラトンの戦いにおいて、
ギリシア軍側の勝利を告げ知らせるために、アテネ軍の使者が走ったとされているマラトンからアテネまでの距離は、直線距離にして約30km、道のりにして40kmほどの長さであったと考えられることになるのですが、
歴史上の資料の記録に基づくと、こうしたマラトンの戦いの際に、アテネ軍の使者が走ったと考えられる実際の距離の長さは、
こうしたマラトンからアテネまでの距離にあたる40kmや、マラソンの距離にあたる42.195kmよりもかなり長い距離であったとも考えられることになります。
マラトンの戦いの前にスパルタへと派遣された援軍を求めるための使者
そうすると、まず、
マラトンの戦いにおいてアテネ軍の使者としての役割を務め、マラトンからアテネにまで勝利の吉報を告げ知らせるために走ったとされる具体的な人物としては、
フェイディピデス(Pheidippides)と呼ばれる人物の名が記録として残されているのですが、その一方で、古代ギリシアの歴史家であったヘロドトスの『歴史』 などの歴史上の資料においては、
こうしたフェイディピデスと呼ばれる人物の名は、マラトンの戦いがはじまる前に、援軍を要請するためにスパルタへと派遣された使者の名前として記録に残されています。
つまり、
こうしたヘロドトスの『歴史』 などの歴史上の資料における記述に基づくと、マラトンの戦いの後に、勝利の吉報を告げ知らせるためにアテネへといち早く走り帰っていくことになったアテネ軍の使者は、
マラトンの戦いの前には、ペルシア軍と戦う際の援軍を求めるための使者として、すでにスパルタにまで派遣されていたと考えられ、
そういった意味では、
こうしたフェイディピデスという名のアテネ軍の使者は、援軍要請のために一度はマラトンからスパルタにまで走っていき、そこからすぐに急いでマラトンまで走って戻ってきたものの、
いざマラトンに到着してみると、スパルタの援軍の到着を待つことなくはじまったマラトンの戦いはすでにギリシア軍側の勝利に終わっていて、
そのままほとんど休む間もなく、勝利の吉報を告げ知らせるために、すぐにアテネにまで走っていくことになってしまったとも考えられることになるのです。
アテネの使者フェイディピデスが走った全長520kmにもおよぶ伝令の旅
そして、上記の図において示したように、
こうしたフェイディピデスという名のアテネ軍の使者が走ったと考えられるアテネとスパルタとマラトンという三つの都市の位置関係は、
マラトンからアテネまでの距離が直線距離にして約30km、道のりにして40kmほどの長さであったと考えられるのに対して、
アテネとスパルタとの間の距離は道のりにしてだいたい220kmほど、
マラトンとスパルタとの間の距離は道のりにしてだいたい240kmほど遠く離れていたと考えられることになります。
つまり、そういった意味では、
当時のアテネ軍の使者であったとされるフェイディピデスは、マラトンからスパルタまでの距離を走って往復したのちに、マラトンからアテネまで走り帰っていくという
現代のマラソンの距離にあたる42.195kmどころか、その距離を大きく超える全部で合わせて520kmほどの距離をほとんど休まずに全力で走っていくことになったため、
ちょうど『走れメロス』の話の主人公である青年メロスのように、疲労困憊となって精も根も尽き果ててしまった彼は、アテネへと到着して使者としての役割を果たすと同時に力尽きて命を落とすことになってしまったと考えられることになるのです。
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次回記事:マラトンの戦いの使者として二人の人物の名が挙げられる理由とは?フェイディピデスとエウクレスというアテネの二人の使者
前回記事:マラトンとアテネの地理的な位置関係とは?二つの都市の間の距離の長さとアテネクラシックマラソンのコース
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