歴史から抹消された二つのオリンピック大会とは?古代と近代における開催後に正式な記録から消えた二つの非公式な大会
オリンピックの競技大会が行われる予定となっていながら戦争などの影響によって、そうした大会の開催が中止されることになってしまったオリンピックとしては、
第一次世界大戦の影響によって中止されることになった1916年のベルリンオリンピックや、第二次世界大戦の影響によって中止されることになってしまった1940年の東京オリンピックと1944年のロンドンオリンピックなどが有名ですが、
それとは別に、
実際には競技大会が開催されたものの、その後になって、歴史上における正式な記録からは抹消されることになってしまったオリンピックとしては、
以下で述べるような古代と近代における二つのオリンピック大会の存在が挙げられることになると考えられることになります。
ローマ帝国の暴君ネロによるオリンピックの私物化と不正なる勝利
そうすると、まず、
古代ギリシアのオリンピアの祭典において行われていた古代のオリンピックにあたる競技大会では、現代のオリンピックと同じように、
4年に一度の間隔でギリシアの各地から人々が集まって、互いの力と技を競い合ってスポーツを楽しむ盛大な祭典が開催されていたと考えられることになるのですが、
こうした古代のオリンピックは、オリンピックが開催されていたギリシアの地が、古代世界における新興勢力であったローマの支配下へと組み込まれていくなかで、徐々に衰退の道をたどっていくことになります。
そして、
古代ローマにおける代表的な暴君として有名なローマ帝国の第5代皇帝であったネロの治世の時代になると、彼は自らの権力を誇示するために、こうした歴史あるオリンピアの祭典についても自分の思うままに私物化していくことになり、
本来は西暦65年に行われることになっていたオリンピアの祭典の開催を、自分が競技会に臨むための十分な準備が整っていないという個人的な都合で勝手に2年後に延期してしまったうえで、
西暦67年に行われたオリンピアの祭典に、ギリシア人ではないため本来は正当な参加資格すらない皇帝ネロ自らが競技者として無理やり参加することになります。
そして、
皇帝ネロが実際に参加したオリンピアの祭典の戦車競走の種目においては、彼はレースの途中で戦車から投げ出されてしまって完走さえすることができなかったにもかかわらず、
ローマ皇帝が持つ絶大な権力によってオリンピックのルールをもねじ曲げてしまうことによって、
彼は、もしも自分が不当な妨害を受けずにレースを完走することができていたならば、必ずや一位の順位でゴールに到着していたに違いないのだから、自分は必然的に勝ったのと同じことになるという理由によって、戦車競走における勝利者としての表彰を受けることになります。
しかし、
こうした皇帝ネロが自らの権力によって手にした古代のオリンピックにおける不正な勝利の称号は、彼の死後にすぐに剥奪されてしまうことになり、
それと同時に、こうした不当な権力によって歪められる形で開催されることになった西暦67年に行われた大会そのものの存在が、古代ギリシアにおける一部の公式記録からは完全に抹消されることになってしまうのです。
ギリシャ国王ゲオルギオス1世による非公式な二度目のアテネオリンピックの開催
そして、その後、さらに1800年ほどの時を経て、
フランスのクーベルタン男爵の提唱によって新たに開催されるとこになった近代オリンピックにおいても、実際にはオリンピック大会が開催されていながら、後になって正式な大会の記録からは抜け落ちてしまうことになってしまったというケースが挙げられることになります。
1896年にギリシャのアテネにおいて第1回大会が開催されることで新たにはじまっていった近代オリンピックは、現代における正式な回次の数え方においては、
その4年後に行われた1900年のパリオリンピックが第2回大会、1904年のセントルイスオリンピックが第3回大会、1908年のロンドンオリンピックが第4回大会という形で続いていくことになるのですが、
その一方で、実際には、
こうした第3回大会にあたるセントルイスオリンピックと、第4回大会にあたるロンドンオリンピックとの間には、1906年に再びアテネで開催されることになった幻のオリンピック大会の存在が挙げられることになります。
近代オリンピックの創始者にあたるフランスのクーベルタン男爵は、新たにはじまった近代のオリンピックを国際的な大会とするために、同じ都市ではなく世界各地で順番に競技大会が開催されていくことにしたのですが、
それに対して、
近代オリンピックの第1回大会にあたる1896年のアテネオリンピックが行われる際にその開催に大きく貢献した当時のギリシャ国王であったゲオルギオス1世は、
近代オリンピックも、前述した古代オリンピックの場合と同じように、その発祥の地にあたるギリシアの地において行われるのが正統な大会のあり方であると強く主張したため、
そうしたゲオルギオス1世の意向に応じる形で、第3回大会のセントルイスオリンピックの2年後にあたる1906年に再びアテネオリンピックが行われることになります。
しかし、その後、ギリシャ本国において社会主義運動や王政への反対運動の機運が高まっていくなかで政情不安が引き起こされ、1913年にゲオルギオス1世が暗殺されてしまうことになると、
その後は、こうしたギリシアにおける恒久的なオリンピックの開催を求める機運が再び高まっていくことはなく、
こうした1906年にゲオルギオス1世によって半ば強行的な形で開催されたアテネオリンピックは、オリンピックにおける正式な大会ではない暫定的な大会あるいは非公式な特別大会として位置づけられることによって、
結果として、オリンピックの大会の回次における正式な記録からは抜け落ちてしまうことになったまま現在の時代にまで至ることになってしまったと考えられることになるのです。
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