タブラ・ラサとは何か?③無と有の中間に位置する空白としての人間の心の本質
前回書いたように、一般的にはロックの白紙説と関連づけて捉えられることが多い人間の心の本来的なあり方を意味するタブラ・ラサ(tabula rasa)という概念は、
そのラテン語本来の意味にまでさかのぼって考えていくと、それはもともとは、まっさらな状態にある白紙という意味よりは、
「空白の書字板」や「拭われた石板」といった意味を表わす言葉であったと考えられることになります。
そして、このシリーズの初回でも書いたように、哲学史において、タブラ・ラサという概念が形成されていった思想的な源流は、中世のスコラ哲学や、古代ギリシアのアリストテレス哲学の内に求められることになりますが、
こうしたタブラ・ラサというラテン語の言葉が持つ本来の意味からは、こうした概念の起源となった古代ギリシア哲学から中世のスコラ哲学、そして近代の観念論哲学へと至る哲学的議論の積み重ねによって徐々に明らかにされていった人間の心の本質についての微妙で繊細なあり方を読み取ることができると考えられることになるのです。
「まっさらな白紙」と「拭われた石板」という二つの比喩の意味合いの違い
イギリス経験論の代表的な哲学者であるジョン・ロックの白紙論とも呼ばれる人間の心の本来的なあり方についての議論においては、
人間の心は、その誕生の段階においては、文字通り、いっさい何の手もつけられていなければ、その内にいかなる観念や原理も存在しないまっさらな白紙状態として捉えられることになります。
それに対して、
タブラ・ラサという言葉が持つ、ラテン語本来の意味としては、それは、文字が拭き消された状態にある「空白の書字板」、すなわち、「拭われた石板」のことを意味する言葉ということになりますが、
そもそも、文字が消され、石板がきれいに拭われた状態にあると言えるためには、
その前提として、むしろ書字板の上には、その以前の段階においては、何らかの文字が書き込まれていなければならないとも考えられることになります。
つまり、
白紙が、文字通り、いっさい何の手のつけられていないまっさら状態にあるということを意味するのに対して、
タブラ・ラサというラテン語の表現の方は、書字板の上に書かれた文字がきれいに拭い去られた状態にあるということを意味していて、
後者の表現においては、人間がこの世界の内に誕生する以前に、その心の内にすでに何らかの形である種の観念が刻み込まれているということを必ずしも排除しないという点に、
両者の比喩には大きな意味合いの違いがあると考えられることになるのです。
無と有の中間に位置する空白としての人間の心の本質
あるいは、少し別な観点からも考えてみることにするならば、
タブラ・ラサという言葉において示されているように、その書字板が何の文字も書かれていない空白の状態にあるとしても、
それが書字板という一定の仕組みを持った道具のようなものとして存在している限り、
そこにはもとから何も存在していなかったわけではなく、少なくても、その上に何かを書き込んだり、消し去ったりすることができる一定の構造や何らかの機能のようなものは存在していたと考えられることになります。
つまり、
紙といった均一な素材からなるような単純な物質の場合はともかくとしても、
書字板といった、ある程度複雑な構造をもった道具の場合、それはたとえ何の観念も情報もいまだ刻み込まれていない空白の状態にあるとしても、
そうした空白は、まったく何も存在しない無の状態を意味しているわけではなく、ある種の潜在的な能力や機能、一定の基層構造を有する存在として捉えられるということです。
そして、そういう意味では、
タブラ・ラサという言葉は、人間の心がその誕生の段階において、まったく何もないまっさらな無の状態にあるというよりは、
むしろ、心の内に「善」や「美」といった明確な観念が刻み込まれている有の状態と、上記のまっさらな無の状態の中間にあるということを意味していて、
それは、人間の心がその本質において、そうした無と有の中間に位置する空白の状態として存在しているということを示す言葉であると考えられることになるのです。
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以上のように、
タブラ・ラサという言葉は、そのラテン語の表現が持つ本来の意味にまで立ち還って考えていくと、
この言葉は、単に、人間の心が誕生の段階においてまっさらな白紙のような無の状態にあるということを示しているわけではなく、
それはむしろ、明確な観念や情報はいまだ刻み込まれていないものの、潜在的には一定の基層構造や、能力や機能を有する存在のことを示す比喩として捉えられることになります。
つまり、タブラ・ラサという概念は、
人間の心が、その内に予め具体的な観念が刻み込まれていないという点においては空白でありながら、それが一定の基層構造やある種の能力や機能のようなものを有する点においてはまったくの無でもないという意味において、
人間の心の本質が、そうしたまっさらな無と明瞭な有との中間に位置するという意味での空白の状態にあるということを意味する概念であると捉えることができるということです。
そして、
こうしたタブラ・ラサという言葉によって表現されている人間の心の本質や、そうした心の内に生まれながらに備わっているとされる生得観念と呼ばれる観念の有無については、
ガッサンディやロックといった経験主義の哲学者たちよりも少し後の時代の哲学者であるライプニッツやカントといった観念論哲学を展開した哲学者たちの思想の内において、より複雑で洗練された哲学的議論が展開されていくことになるのです。
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初回記事:タブラ・ラサとは何か?①ロックの白紙説とアリストテレス哲学の関係
前回記事:タブラ・ラサとは何か?②ラテン語におけるタブラの意味と黒板とチョーク
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