エレアのゼノンの哲学の概要
エレアのゼノン(Zenon of Elea、前490年頃~前430年頃)は、
紀元前5世紀中頃の古代ギリシアの哲学者で、
南イタリア西岸のギリシア人植民都市
エレア(Elea)の出身です。
同じく哲学者である
ストア派のゼノンと区別するために、
こちらのゼノンはその出身地にちなんで、
エレアのゼノンと呼ばれています。
エレアのゼノンは、当人と同様に、
エレア出身の哲学者であるパルメニデスの弟子であり、
師であるパルメニデスの思想を受け継ぐ
エレア学派の哲学者として、
存在の多数性論駁や運動の否定などを唱えましたが、
ゼノンは、
そうした議論のなかで提示された、
「二分法のパラドックス」や「アキレスと亀のパラドックス」、
「競技場のパラドックス」、そして、「飛ぶ矢は飛ばずのパラドックス」などの
ゼノンのパラドックス(※Zeno’s paradoxes)として知られる
一連のパラドックスの作者としても有名です。
※「ゼノン(Zenon)の表記は、英語では“Zeno”になります。
エレアのゼノンの哲学の概要
エレアのゼノンは、
師であるパルメニデスの学説に従い、
「あるの道」、すなわち、存在についての探究こそが、
哲学的探究が歩むべき唯一の道であり、
その探究の対象である
「あるもの(to eon、ト・エオン)」すなわち、
存在そのものについて、
感覚ではなく、
知性(nous、ヌース)と論理(logos、ロゴス)に基づいて
探究を進めることが重要であると考えました。
そして、ゼノンは、
パルメニデスによる「あるもの(ト・エオン)」の本性規定のなかで、
特に、
「連続・不可分性」と「不動性」を重視し、
その論理的見解を、
感覚と目に見える世界の現象の方を重視する
自然学者たちからの反論から擁護するために、
背理法(ある命題と正反対の命題が真であると仮定して、そこから矛盾を導くことにより、元の命題が真であることを証明する論法)や、
パラドックス(事実に反するはずの結論が、正しいように見える推論によって導かれてしまうことを示すことによって常識的な理解を覆す論法)
といった、数々の
論理的手法を駆使した議論を展開しました。
まず、
「あるもの(ト・エオン)」の本性規定の
「連続・不可分性」からは、
連続していて分割できないということからは、
一つにまとまっていて、多数に分かれていない
ということが帰結するので、
ゼノンは、
存在は多数に分割されている、すなわち、
存在は多であると仮定すると
有限であると同時に無限であるという矛盾が導かれるといった
背理法の議論によって
存在の多数性論駁を行います。
そして、次に、
「あるもの(ト・エオン)」の本性規定の
「不動性」からは、
その概念が示す通り、動かないこと、すなわち、
運動の否定が帰結するので、
ゼノンは、今度は、
最も足が速いものが、最も足が遅い者に追いつけないという
「アキレスと亀」や
放たれた矢は、その場にとどまり続けて静止するという
「飛ぶ矢は飛ばず」
といったパラドックスを提示していくことによって、
論理(ロゴス)においては、
いかなる存在も決して動くことがないことを示し、
運動という概念自体が否定されていくことになります。
以上のように、ゼノンにおいては、
背理法とパラドックスの論理によって、
「あるもの」、存在そのものである
根源的な意味での存在は、
多数ではなく、一つにまとまった
連続不可分なものであり、
それにおいては、運動という概念自体が否定される
不変不動のものである
ということが、
知性と論理のみによって証明されていくのです。
・・・
しかし、
ゼノンのパラドックスにおける帰結がどのようなものであるにせよ、
当たり前のことではありますが、
現実の世界においては、
アキレウスは亀に追いつき、追い越しますし、
矢は的をめがけて一直線に飛んでいきます。
論理の力だけ、頭の中の思考だけで、
現実の世界の実際の現象の方がねじ曲げられてしまうということは
決してありません。
このように、
誰の目にも明らかなはずの現実の現象を、
頭の中の論理だけで真っ向から否定する
ゼノンのパラドックスの手法は、
一見すると、ただ屁理屈をこねて人を騙し、弄んでいるだけの
いかさま師のような議論にも見えますが、
むしろ、ゼノンは、
あえて、そうした現実の世界における事実と明らかに反する
論理的なパラドックスを提示することによって、
現実の世界を成り立たせている構造についての常識への
極端な疑義を投げかけ、
そうすることによって、
論理的思考を促すための思考の材料と、
哲学的探究をを深めるための契機を与えているとも考えられるのです。
つまり、
ゼノンは、
パラドックスをめぐる議論と論駁を通じて、
普段は当たり前のように受け入れられている
常識や経験的知識に対して疑いを投げかけ、
そうした常識的知識も、論理的に突き詰めていくと、
実は、本質的な意味では間違っているのかもしれないという
論理的な自省をうながすことによって、
思惑(ドクサ、思いなし)や先入観、固定観念
といったものを打破し、
知性(ヌース)を正しく働かせて、
論理的思考によって世界を捉え直すことの重要性を示し、
パラドックスに触発されて、
それに応えて反論しようとする人を、
知性と論理による
哲学的真理の探究の道へと導いている
とも考えられるということです。
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