存在の多数性論駁①存在の数の有限性と無限分割
「エレアのゼノンの哲学の概要」で書いたように、
エレアのゼノンは、
パルメニデスによる「あるもの(to eon、ト・エオン)」の本性規定の内の
「連続・不可分性」と「不動性」を重視し、
「あるもの」すなわち、存在そのもののあり方を、
論理と知性のみによって探究していきました。
「あるもの」の本性規定である
「連続・不可分性」からは、存在の多数性の否定が帰着し、
「不動性」からは、運動の否定が帰着しますが、
ゼノンは、
そうした論理的見解を擁護するために、
存在の多数性を論駁するためには、
背理法の議論を用い、
運動という概念自体を論駁するためには、
パラドックスの議論を用い、
それぞれのテーマについて多数の議論を提示しています。
今回は、その中の
存在の多数性論駁の方の議論の内の一つである
存在の数の有限性と、無限分割に基づく
背理法の議論について、
その詳しい内容を見ていきたいと思います。
存在の数の有限性についての議論
エレアのゼノンは、
まず、
存在が多から成ると仮定すると、
その多数である存在は、ある特定の時点において、
ある特定の有限の数だけあることになる
と主張します。
例えば、
砂浜に広がっている砂の数は、
数え切れないほど数多くあるとしても、
それが無限にあるということはあり得ないように、
この世界にあるすべての存在の数も、それが膨大な数であるにしろ、
ある特定の瞬間には、ある特定の数だけあるはずだ
ということです。
存在の無限分割についての議論
そして、
二つの存在が、連続した一体の存在ではなく、
それぞれ別々の存在であるとされるのは、
それぞれの存在の間に両者を分け隔てる何か、すなわち、
何らかの仕切りがあるからですが、
その仕切りが二つの存在を分け隔てている以上、
その仕切り自体もまた、何らかの存在であるということになります。
なぜならば、
もし、仕切りが存在ではない、すなわち、非存在であるとすると、
それは、仕切りが存在しないのと同じということになり、
二つの存在は分け隔てられていることにならず、
それらは、本当はひと続きの存在であるということになってしまうからです。
つまり、
非存在は、存在の間を分け隔てることができない以上、
二つの存在の仕切りとなっているものは、やはり、
何らかの存在でなければならず、
現に二つの存在があるとするならば、
その二つを隔てている仕切りである
第三の存在が必然的に存在することになるということです。
そして、
上図において、その議論の展開過程を示したように、
はじめの二つの存在と第三の存在が
別々の存在として分け隔てられているためには、
第一の存在と第三の存在の間と、第三の存在と第二の存在の間に、
さらに、
第四の存在と第五の存在が
それぞれの存在を分け隔てる仕切りとして
存在しなくてはならない
というように、
同様の議論が延々と展開されていくので、
存在が多から成ると仮定すると、
その数はどこまでも無限に分割される
すなわち、
存在の数は無限である
という結論に帰着することになるのです。
存在の数は有限であると同時に無限でもある
そして、
以上の議論から、
前半の「存在の数の有限性についての議論」においては、
存在の数は、ある特定の有限の数でなければならないとされたのに、
後半の「存在の無限分割についての議論」においては、
存在の数は無限であるということが帰着したので、
存在が多であると仮定すると、
存在の数は、有限であると同時に無限であるという
矛盾が生じることになります。
したがって、
はじめの存在が多であるという仮定自身が否定され、
その反対の命題である
存在とは連続不可分な一である
というパルメニデスの論理的見解が肯定され、
存在の数の有限性と無限分割に基づく
ゼノンの存在の多数性論駁が完遂されることになるのです。
包括的に捉えられた宇宙全体としての存在の無限分割
しかし、
前半の存在の数の有限性の議論の方はともかく、
後半の存在の無限分割の方の議論は、
現代の感覚から言うと、少し理解しにくい点もあるので、
もう少し説明を補っておく必要があるかもしれません。
ゼノンが存在の多数性論駁について語っているとき、
その念頭にあるのは、常に、
パルメニデスの「あるもの(ト・エオン)」
すなわち、
世界全体を包み込み、その基盤となっている
存在そのもの
であって、
存在の多数性を否定しているといっても、
それは、花や石、人間の数といった
現実の世界における個々の存在が現に多数あるということを
否定しているわけではありません。
言わば、
ゼノンが言う「存在」とは、
宇宙全体をひとくくりに捉えたようなもの、すなわち、
包括的に捉えられた宇宙全体、世界全体を指して言う「存在」であって、
存在の多数性論駁の議論では、
そうした宇宙全体が一つの塊として捉えられたような「存在」について、
そうした存在そのものが、本質的な意味で一つではなく、
ある特定の数の部分に分かれているということがあり得るのか?
という問題について考えているということです。
そして、
そのように一つの巨大な塊のようなものとして
包括的に捉えられた宇宙全体としての存在においては、
それが一つではなく、
複数のある特定の数から構成されていると仮定すると、
その数がどんなに少数であったとしても、
存在の複数性という仮定自体が契機となって、
どこまでも存在の無限分割が進行してしまうことになるのです。
例えば、
宇宙全体が最小の複数である
たった二つの区画から成ってると仮定したとしても、
その二つの区画を分け隔てる第三の区画も存在することになり、
その第三の区画とはじめの二つの区画との間にも、
それぞれ、第四、第五という別の区画が存在することになるというように、
どんどん際限なく存在の区画の分割が進んでいくことになり、
結局、
存在が一ではなく、多であると考える場合、
宇宙は無限の区画、無限の部分から成る
という結論に帰着してしまうことになります。
つまり、
包括的に捉えられた宇宙全体としての存在について、
それが、ひとつながりの連続不可分な一なる存在ではなく、
多数の存在によって構成されていると考えると、
存在の区画の区画、存在の部分の部分へと
際限のない細分化が進行してしまい
どこまでいっても
世界を構成する最小の単位には行き着かず、
存在は無限に分割されていってしまう
ということです。
少し別な言い方をするならば、
存在の分割化が進んでいく過程において、
例えば、原子のような
微小ではあるが特定の大きさをもった存在の部分
が宇宙全体を構成する存在の最小単位であると主張したとしても、
それが特定の大きさを持つものである以上、
少なくとも概念上は、
その最小単位とされた存在をさらに二つに切り分けて、
さらに小さな存在の部分へと分割していくことは、いくらでも可能であり、
やはり、存在の部分の部分へと
存在の無限の分割化が進んでいってしまうということになるのです。
・・・
以上のように、
存在の数の有限性と無限分割に基づく
ゼノンの存在の多数性論駁の議論に従うと、
宇宙全体を包括する概念である
存在そのものについて考えるとき、
存在が多であると仮定すると、
有限の数の存在から構成されているはずの存在が、
同時に無限の数あるという矛盾が生じてしまう
ということになるわけですが、
そうすると、
はじめの
世界は有限の数の存在から構成されるという
存在の数の有限性の前提の方を取り去ってしまって、
世界は、無限分割される
無限の数の小さな粒子のようなものによって構成されていると考えれば
存在が多であるとしても矛盾が生じないのではないか?
という新たな反論が考えられることになりますが、
これに対しては、
ゼノンの新たな観点からの
多数性論駁の議論の矛先が向けられることになります。
・・・
このシリーズの次回記事:存在の多数性論駁②無限数の存在からなる無限小の世界
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